「経済学は実在するのか"道具"にすぎないのか」というタイトルで話しました。日本経済学会2012年度春季大会(北海道大学)の特別セッションで、加藤淳子先生(東京大学)が「脳神経科学実験で人間の社会行動の何がわかるか」で発表なさったあとの討論をさせていただきました。
まず、神経経済学の問題関心・発見の例として、心の理論(Theory of Mind)と数当てゲームにおける推論深度の相関を紹介しました。本題はここからです。
脳の活動を観察する神経経済学では、「コンテクストによって同じ行動(選択)によって意味が異なる」と言われることもありますが、経済学の「
顕示選好理論(revealed preference)」アプローチからすれば、「so what(だから、なに)?」となりうる。なぜかというと...。経済学における意思決定の理論は、観察可能な選択結果(意思決定の結果の部分だけ)に立脚した理論であって、意思決定プロセスそのものを直接扱いはしないからです。そうした立場にたてば、「同じ行動でも意味が異なる」というのは本質でない、と。(こうきくと「過程を無視しちゃ意味ないだろう」と批判したくなりますが、これにはこれなりの理屈と意義があります。)
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『科学と仮説』 |
つまり、選択
結果が整合的に説明できればいい---できさえすればいい---という態度・立場ともなります。経済理論は、選択結果を整合的に説明できさえすればよい。したがって、整合性が損なわれないかぎり、「合理的経済人の仮定」だとか「効用最大化」とか、そういった経済理論の前提は必ずしも真である必要はないのです。
経済理論は、それ自体が本当に世界のあるがままを記述しているわけではなく、我々人間が認識を深めるや議論をするための便宜的な「道具」にすぎない。思い出すのは、ポアンカレが『
科学と仮説』のなかで述べた次のことばです(岩波文庫版p.76):
幾何学の公理は先天的総合判断でもないし、実験的事実でもない。それは規約である。
平行線が交わらないユークリッド幾何学だろうが、平行線など引けない非ユークリッド幾何学だろうが、どちらも正しい。もちろん、前者のほうが我々人間には極めてもっともらしいのですが、本当に正しいとは言い切れない。つまり、平行線公準は、ただの規約(取り決め)にすぎず、その正しさを云々することは無意味である。平行線があるという前提(規約)で話をすすめるか、あるいは、平行線は引けないという前提(規約)で話をすすめるか、どちらかを選べばいいだけだというのです。科学の多くは、このように選択が可能な規約のうち、もっともらしいものを選んで、それにのっとって理論を構築しているのだという考え。
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「経済学の公理は先天的総合判断でもないし、実験的事実でもない。それは規約である。」
「それでは経済学は真であるか、という問を何と思考すべきであろうか。[だが、]この問は何も意義を有しない。」
ポアンカレ『科学と仮説』をもじって引用。(幾何学→経済学) |
同じように、「
経済学の公理は先天的総合判断でもないし、実験的事実でもない。それは規約にすぎない。」といえるはずです。経済理論は本当の実体経済についての科学ではなくて、ある規約にのっとったひとつの壮大な物語だということ。その規約のひとつがたとえば「完全競争」の仮定でしょう。完全競争市場など存在しない、という批判に対しては、「いやこれはあくまで規約であって、仮にそうならば(as if)、どういったことが予想されるかを考えているだけだ」ということができます。
幾何学ならばまだしも、社会科学で、それも経済政策といった人々の生活に関わりの深い学問分野で、「経済学は規約主義的である」といいきるのも、やや無責任だと私は思います。経済理論を学問として真剣に勉強していれば、誰もが一度は抱く疑問でしょう。ただ、人の意思決定プロセスは不可知なのだから、そのように割り切らざるをえないところがあったわけです。
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規約主義をひっくりかえせるか |
ただし、神経経済学の研究が明らかにしてきたように、選択プロセスについての神経基盤(neural basis)がみつかるとなれば、話は別です。選択プロセスが「規約」ではなく、実在するというのなら、経済学は規約主義をひっくりかえして、観察された現象については謙虚に向き合うべきだし、同時に、実在する科学理論だともっと自信をもっていいと思います。
スライドではもう1点、
経済学における「精密な計測」の意義を事例をもとに強調しました。それはまた別の機会に。