竹内幹ゼミでは定番図書を読んでもらうことにしています。私のような人間が”定番図書”を読めと人に押し付けるなんて身の程知らずの思い上がりだ。と思っているのですが、ある試みの失敗を経て、現在のやりかたに変えました。その試みとは...。
ゼミ選考の提出書類に、「ゼミ生への推薦図書」を書いてもらっています。薄いっぺらいビジネススキル本を書かれてはつらいので、西暦2000年以前に出版されたもので、自分にとって大事な本、他のゼミ生におすすめしたい本、を紹介してもらっています。やっぱり若いときに、そういうものに触れてほしいと思うので(と、私自身、若いときからそう思っています)。
あるとき、思いきって、ゼミのはじめに図書カード1人3000円を配りました。合計24000円を私のポケットマネーで。そして、「ゼミ生への推薦図書」を教員の私が読んで、つらつらと感想文を書くことにしました。ゼミ生同士でも推薦図書を読み合うなんていう美しいシーンが展開されることをひそかに期待したのです。
ところが、完全にあてが外れたようで、そうした動きは見られませんでした(少なくとも私には)。実は、かなりがっかりしました。それで、この失敗をうけて、「竹内による推薦図書」を読ませるという、やや傲岸不遜なポリシーをとるようになったのです。
書評や評論のような格調高いものを書くキャパシティ・力量はないのだけど、感想文・エッセイはがんばって書きました。下に貼り付けてみます。ゼミの先生が自分の推薦図書を読んでくれて感想文まで書いてくれたら、うれしくていっぱい読んじゃうような学生だったな私は。でも、その大学のセンセイになる「私」基準を、学生にそのままあてはめてもうまくいかないね....。
アリストテレス『弁論術』(岩波文庫)
Iさんの推薦図書、読み終わりました。弁証ではなく、単なる演説テクニックとしての弁論術について、現実主義者のアリストテレスが解説した書物。いまから2300年くらいまえの講義録・著述が現代に伝われる。おもしろい。
第1巻は、概論や総論のような前置きで、前半部の弁論vs弁証の観察はとても面白い。後半部は、おなじみの「徳とは...」のようなつかみどころのない話をしている。ただ、弁論術の使い方を間違わないためには必要な前置きだということかしら。第2巻は、聴き手の心理について、細かい場合わけをして解説を試みています。第2巻第22章(p.259-)あたりから、弁論についての記述が多くなってきて楽しめる。
第3巻(第1章, p.306)に入って、真理を証明する弁証術と、話法についての弁論術のちがいについて、以下のようにはっきりといいきる。
「演技的要素の研究など低俗なことだと思われているが、そのように見るのも正しいのである。しかしながら、弁論術の仕事は、その全体が聴き手はどう思うかに向けられているのであるから、そのような表現方法(話術)を、正しいこととしてではなく、説得に必要なことと考えて、それに関心を寄せるべきである。なにしろ、弁論に関しては、本当に正しいことというのは、聴き手に苦痛も与えなければ悦ばせることもないように語って、それ以上は求めないということなのだから。なぜなら、正しいのは、事柄そのものをもって争うことであり、したがって、証明以外のことはすべて余分だからである。とはいえ、上でも言ったように、聴き手が能力を欠いているため、演技的要素は大きな効果を発揮する。」
伝えられるとおり、このようにアリストテレスが書いたのであれば、いまも昔も変わらないねえなあというのが、私の率直な感想。「聴き手が能力を欠いているため」←ここは、声を出して笑ってしまったシーンです。「どう語るか、その語り方の違いで、はっきり示すという点で違いが出る...しかし、その違いも...すべては見せかけの上でのこと...。それなればこそ、幾何学を教えるのにそのような手段をとる者は一人もいないのである。」←まったくです。第2巻にもすでに同様に;
「前者[=多くの議論を重ねて結論を導くこと]は議論が長すぎて、聴衆にははっきりしなくなるし、後者[=議論の段階をすべて押さえながら結論を導くこと]は、判りきったことまで述べるため、無用なお喋りになるからである。じつにこのことが、大衆の前では、教養豊かな弁論家よりも教養に欠ける弁論家のほうが説得力を持つ理由となっている。(p.259)」とあります。
第3巻第14章に面白い部分があります。
「聴き手によく判って貰うためには、望みとあれば、語り手はありとあらゆる手段をこれにさし向けることであろう。優れた人物と思われる、というのもその一つである。というのは、聴き手はそのような人物により一そう注目するからである。聴き手はまた、重要なこと、自分に深く関わりあること、驚嘆すべきこと、快いことに注目するものである。それゆえ、弁論がこのようなことに関わっているかのような印象を植え付けなければならない。(p.374)」
本当にアリストテレスがこのように書いたのか。身も蓋もないけど、ずばり聴き手のことを適確に書いていますね。このように、にやにやしながら読んだくだりは多かったです。
第1巻後半の「徳とは...」や、第2巻の聴き手の「義憤vs妬み」の下りなどの曖昧な記述を読むと、人文学・社会科学が最近数世紀で飛躍的に進歩したことを感じました。着眼点はするどくても、観察による検証というプロセスがぬるすぎて、現代レベルだと論文プロポーザルにすらならない。紀元前300年頃の当時では天才的思想家だったわけで、だからこそ2000年以上の時の流れのなかを生き延び、言語・文化を超えて、当時アリストテレス自身も存在をしらなかったような東洋の国々にまで翻訳されて伝えられているんですね。すげーや。
とはいうものの、論点を複数の要素に分解して各々を論じていく考え方など、すでに2000年以上前に完成されていた、思考方法であることも同時に実感。写本されるごとに手が加わっていますから、どこまでがオリジナルなのかはわかりませんけども(こういうこともその筋の研究者が解明を試みているんだとは思いますが...)。
その1つが、「要点を先に示すこと(第3巻第5章, p.327)」。おお! いまプレゼンや文章の書き方で必ず強調されることの1つですね、これは。「文の中間に多くの語句を挿入しようとする際、自分の言わんとすることを前もって示しておかないような場合も、文章を曖昧なものにする。例えば、『なぜなら私は、彼と、かくかくしかじかのことが、これこれのようであって云々、と話し合ってから出発しようと考えていたからである』と述べ[るようなやり方は文章を曖昧にしてしまっている]」とのこと。(やや長いところもあるので、それをこなすと)いろいろと面白かったです。ありがとう。
新田次郎『孤高の人』
それで、どうしても山歩きしたくなり、息子を連れて、今日奥多摩に行ってきました(山歩き15年ぶりか、もっと久しぶり)。鳩ノ巣駅→コブタカ山→本仁田山(1224m)→奥多摩駅で、30年近く前、私が中学1年で初めて奥多摩登山したときと同じ道筋。そのとき買ったザックもまだ使っているので、それを持って行きました。
Sさんのお父様が好きだという谷川岳。中1・2・3・高1の夏に私も登りました。写真は、大学2年で登ったときのもの(後ろで横になっているのは、同期の中川淳一郎さん)。こちらも体力が続くうちに1回くらいは行っておきたくなりました。
ジャレド・ダイアモンド『銃・病原菌・鉄』、読了。
本書タイトルは、スペイン人宣教師ラス・カサスの告発『インディアスの破壊についての簡潔な報告 』(岩波文庫)のような歴史事実が背景でしょう。"銃・病原菌・鉄"は、スペインの征服者(コンキスタドール)たちが16世紀の中南米で行った、1000万人規模の大虐殺から来ているはずです。本の表紙絵もミレイ(1845)「ペルーのインカを征服するピサロ」。
アステカ帝国にしてもインカ帝国にしても、16世紀のスペインにあっさり負けてしまった(必ずしもそうではないのだけど、そのように言われることが多い)。もっぱら、銃や乗馬技術の有無、そして病原菌(天然痘)による人口激減が敗北を決定づけたのだが、どうしてここまで圧倒的な差がついてしまっていたのか、と。
単に「圧倒的な差」というのではなく、宣教師カサスが告発した、殺戮・拷問・略奪の凄惨なシーンを知っておくことも教養でしょう。(以後、注意)。「スペイン人は無数のインディオを殺害し、男女に関係なく、数え切れないほどのインディオの手を切断し、鼻を削ぎ落とし、さらに、残りのインディオを獰猛な犬に投げ与えた。彼らは犬にずたずたに引き裂かれ、食い殺された。(p.209)」や「[奴隷にしたインディオが]疲労困憊して歩けなくなったり、気を失ったりす...ると、スペイン人は...倒れたインディオの前を鎖に繋がれて歩いていたインディオたちの首枷を外すのが面倒なので、すぐさま、そのインディオの首枷の辺りを斬りつけ、首を切断した。(p.172)」のようなのは、数ページに1回、多くの場合、地名や人名といった固有名詞つきで(追記)、出てくる。
「さて、例の総督[ペドラリアス・ダビラ]の統治期に、総督自身が手を下したり、部下が行うのを容認したりした犯罪行為は数え切れないほどあり、以下にその一例を記そう。あるひとりのカシーケ、つまり、インディオたちの首長が総督に9000カステリャーノの金を差し出したことがあった。...ところが、スペイン人はそれだけでは満足せず、その首長の身柄を拘束し、地面に立てた一本の杭に縛りつけ、それから、両脚を引っ張り、足元に火をあて、さらに多くの金を差し出すように強要した。首長は部下を自分の館へ遣り、さらに3000カステリャーノの金を持参させた。しかし、それでもスペイン人は満足せず、ふたたび首長に拷問を加えはじめた...そのまま首長の足を炙りつづけたので、とうとう、足の裏から骨が突き出てしまい、そうして、首長は息絶えた。...スペイン人は金を奪うために大勢の首長を殺したり、苦しめたりしたが、それは一度や二度のことではなく、数えきれないくらい頻繁に行なわれた(版画6)。(pp.71-72)」。
具体的な地名や人名でしっかり書かれているのがほとんどで、原住民皆殺しであった。19世紀になっても、南米アルゼンチンでは原住民駆除の報奨金を出したりもしているので、同じ人間だとは思っていないのでしょう。読むだけでもつらいが、現場をみたらPTSDになる。
因みにこの報告書は、本国に征服をやめさせるように働きかける目的で宣教師カサスが、おそらく命をかけて、"政府の許可を受けずに"出版したもの。以後、100年以上経って、対スペイン戦争のときに他国に利用されるなどが、74ページもの訳者による解説で興味深く考察されている。
本題に戻して。中国も、鄭和(1371-1434)が大航海時代に大船団を率いてアフリカ大陸まで行く技術力はあったのだが、進歩がとまってしまった。以後の産業革命などで、ヨーロッパが一気に中国を引き離した。人類の三大発明、火薬・羅針盤・印刷技術は、中国発祥であったのに。なぜか?
本書では、新興技術の普及が人為的に妨げられる要因として、既得権益による抵抗や、あるいは中央集権内の権力争いをあげている。中国の大航海も、それを推進した側が政権内部で失脚し、以後、政権をとった側が大航海を国策として打ち出すことはなかった、と。
それに対して、ヨーロッパは地形的に入り江や山脈で入り組んでおり、全ヨーロッパが統一政権のもとにおかれることはなかった。それが、新興技術を取り入れ改良する動機を各地方に与えたということらしい。また、意思決定権者は、各人の権限は中国の明帝国の大きさにはるかに及ばないものの、数が多い。つまり、あっちがだめでも、別の権力者が新技術を採用しうるという多様性があった(一方で、平原が多い中国では権力が集中したがゆえに、その多様性がなかった)と考察しています。いろいろとこうしたエピソードがとても面白い本でした。
石器時代後からつい数百年前まで、人々の暮らし向きはほとんどよくならなかった。もちろん幾多の技術によって生産性は比較できないほど改良されたのだけど、一人あたりの食料生産や平均余命30年程度といった数値をみれば、先進国の貴族や富裕層のようなごく一部を除けば、ずっと生存ぎりぎりのラインだった。先進国首都ロンドンでさえ『オリバーツイスト』の描写をみれば、なるほどと思う。
この手の本はエピソードや統計やら、ほんとうにいろいろ勉強になりますね。『豊かさの誕生』も読んでみようと思いました。良い本を紹介してくれて、どうもありがとうございました。
三浦綾子(1968)『塩狩峠』読了。
Yさんの推薦図書。『氷点』にしても『塩狩峠』にしても、なんとなく読まずにここまで来たので、読めてよかった。ありがとうございます。
アメリカに住んでいたときに、教会に行ったり、行事に参加したり、教会の人と触れ合う機会がありました。いずれのみなさんも本当に親切だったし、その教えは[異教徒の私にとっても概ね]素晴らしいものばかりだった。その思いにはいつも感動するし、敬意をもっています。
話の後半で、信夫は、徹底してキリスト者になるために、困っている人(三堀)を助けたし、そこには常人では理解しがたい信夫自身の犠牲をともなっていた。しかし、結局は、それによって神に近づくことができるという下心のようなものが自分にあることに信夫は気づき、大いに反省するわけです。まさに求道。
そんな誠実な信夫が命を投げ出して多くの乗客を救うのは理解できるけれど、それは三堀を助けたとき同じような、信夫自身の自己成就が重ね合わされてしまいうるわけで、信仰というのは本当に厳しいと思う(これは決して「偽善だ」とかいうシニカルな見方ではないです)。狭き門より心して入れ! ということか。
遠藤周作(1966)『沈黙』は、『トニオ・クレーゲル』や『ソクラテスの弁明』などとともに、私にとっては大事な本のひとつです。高校3年生のときに放課後に教室で一人読んでいて、あの決定的なシーンの部分で、顔も上半身も感動のあまりしびれて呆然と黒板を眺めた自分の姿をよく覚えています。あのとき、キリスト教のいう「インマヌエル」=どんなにつらくても苦しくても神はあなたとともにあることや、罪人はより深く愛されるがゆえに幸いであるとか、イエスが言う「わたしが来たのは正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」や、イエスが「自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われ」たということがすこしわかった気がしました。他にも『侍』やら7冊を読んだ。遠藤周作流の解釈ではあってそれを甘いという信者もいるはず。でも、今後もキリスト者にはなりませんが、これらの本を読ませてもらった経験と思考は、いまでも心の支えとなっています。
『沈黙』はぜひすすめたい。(事前知識としていれておくといいのは、人々が罪深いことのおおもとの「罪」は、神を認めないことにあり、神を信じ、その赦しを請うことでしか救われないという信仰教義かと思います。その請い方も、生贄やポーズのような慈善や偶像崇拝ではいけないわけです。厳しいよ。)
同時に思い出すのは、内村鑑三(1895)『余は如何にして基督教徒にとなりし乎』です(光文社新訳『ぼくはいかにしてキリスト教徒になったか』もでたので、どうぞ)。後半部で書かれる在米経験やカルチャーショック体験などがとても読ませる。キリスト教国に行ったのに、人種差別にあったり、不道徳な輩に失望したり、ね。
ところで、よく見ると、その内村(1895)の一節に「「自由な結婚」「女性の権利」その他多かれ少なかれぼくらにとって好ましくない風俗 習慣を教える宣教師たち」とあって、面白い。女は、学校や大学に行ったり、投票権をもったりする必要はないし、親が決めた縁組を断ることなどすべきでない、ということかな。120年前の明治という時代制約ですね。いつも進歩的であっても、100年もすれば全く異なった考えが広まるうる一例です。それは、21世紀初頭の現在と、100年後の22世紀でも同じことが起きうることを示唆しています。自戒。
『沈黙』を通して彼らの信仰のことを思うたびに、いつも胸に響くし、難しくても謙虚でありたいと思いなおします。
刈谷剛彦(1996)『知的複眼思考法』読了。
感想を述べるまえに、みなさんにとって一番大事だと思う部分を強調しておきます。「ステップ2 書くことと考えること」(p.128-)にある
「考えるという行為は、その考えが何らかのかたちで表現されてはじめて意味を持つもので...しかも、考えたことを文字にしていく場合、いい加減であいまいなままの考えでは、なかなか文章になりません。何となくわかっていることでも、話し言葉でなら、「何となく」のニュアンスを残したまま相手に伝えることも不可能ではありません。それに対して、書き言葉の場合には、その「何となく」はまったく伝わらない場合が多いのです...あいまいではなく、はっきりと考えを定着させることが求められるのです。」
まさしくこの通りですので、配布資料では、箇条書きではなく、文章で書いてほしいのです(パワポは別ですよ)。そして、その過程で、書き進めることができないときは、まずまちがいなく、理解・データ・根拠・知識が不足しているのです。インプットせよ!
他にも、なにか漠然とした文章や意見について、「それはどの程度そうなのか(本当にそうなのか)?」をまず聞く(p.183-)というのは、基本ですね。「日本は集団主義的だから、~~だ」というもっともらしい意見については、「日本ってなんのこと」、「集団主義ってなに?」、仮にそうだとして集団主義とやらと「~~だ」との間に本当に因果関係があるのか? と問い、データ・歴史・類似ケース・先行研究から、それに答えていくところから始めましょう。
刈谷先生の書くものだけあって、前半部は特にしっかりしているし、商学部の導入ゼミで使われたりもしていますけど、これが冒頭に述べたテキストとして機能するのかは、結構難しいかなあとも思います。類書もよく目を通してきたけど、なかなかこの辺で良いテキスト(ワークブック形式)はないです。自分の頭で考えるって、えらそうな言い方ですが、解脱のようなプロセスだから、自ら気づいてもらうしかないようにも思う(ほんとかな? いやもっと科学的にこの"解脱"を分析できているはず。)
そういえば、ある学生さんと面接して、導入ゼミでこの本を使ったと聞きました。私は心のなかで(イイね!)と思ったのですが、その人いわく「つまらなかった」そうで、別のゼミでアイエンガー『選択の科学』をみんなで読んだら「面白かった!」と。
く、くだらない。(もちろん、前者のゼミが実際にダメで、後者のオーガナイズが良かったのかもしれないけど、)この本を読めない人にとっては、『選択の科学』は面白いに決まってるさ。一橋もこのレベルなのだなと。『選択の科学』を読めば、みんな「あるある!」で盛り上がるだろう。でも、それは知的創造とは似ても似つかない別物。十分面白いのだから、一人で読め!。もちろん、そうしたレベルの人が集まれば『選択の科学』をテキストにして、漫画やラノベ以外の読書や研究周りの面白さを体験するには、ちょうどよいのかもしれない。(愚痴をいっても、始まらないね。自戒) とにかく、読む・書く・議論する。これにつきます。がんばってね。私なりに精一杯応援します。
『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』読了
『アンドロイド...』、界隈では有名な小説でしたが、私もついに読みました。機会をくれたNさんに感謝。火星開拓の奴隷として開発された(人間と見分けはつかない)アンドロイドが、自由人となるべく地球に逃亡してくる。それら逃亡アンドロイドを処分するのが主人公の警官としての任務で、人間にまぎれて地球に潜むアンドロイドを見分けるために警察は”共感力”テストを使っている。タイトルにある「電気羊」については物語冒頭に次のような種明かしがある:自然環境が壊滅的に荒れ果てた地球では、生体としてペット(羊とか)を飼うのがステータス・シンボルになっており、それがかなわない場合には偽物のロボットペット電気羊を飼うというわけ。そんな設定。
さきほど息子も読み終えて、大変面白かったようです。「知能[自我]をもったアンドロイドなんかそもそも作らなければいいのに」とのこと。(1箇所だけ女との絡みがあるのが、村上春樹もそうだったけど、ハードボイルド小説的妄想でちょっと遠慮したいところ)。
自我の定義の拡張(自分ではない他人に、本当に"自我"はあるのか...)がどこまで可能かというレトリック。SF的ギミックが生きる問ですよね。Yさん大好きなスタートレックでいえば、TNG第138話「甦ったモリアーティ教授」。エンタープライズ艦内にある、ヴァーチャル・リアリティ装置「ホロデッキ」に再生された天才モリアーティ(注:ホームズの宿敵ね)が自我を持ち、ホームズごっこをしたい人間側の都合でON/OFFされることのない、自由な生存権を要求するのです。そのために、エンタープライズ号のコントロール権にアクセスして、乗員全員を人質にとるというストーリー(そうそう、マット・デイモンがスピーチで紹介した、シミュレーションセオリーがでてくるよね)。
よい週末を。
マーク・ピーターセン『続 日本人の英語』(岩波新書、1990)、Iさんのおすすめ図書、読みおわりました。I work in... I work for... I work at, のニュアンスなども解説してくれる。アメリカにいていろいろ書いたり話したりしたけど、前置詞なんかは全然わからなかった。冠詞もわからなかった(いまもやっぱり全然わからない)。でも、本書の解説はだいたい「ああ、そうそう知ってる」という感覚でもある、すこしはわかるようになったのかな。
ちょうど、私自身が川端『古都』を読んだばかりであったところで、本書で川端康成『山の音』の1シーンをいかに英訳しうるかという部分が特に面白かった。5人家族の会話で「やさしい」が7回も繰り返し登場する部分、機微をとらえた丁寧な使い分け・書き分けを、英語ではnice, good, kind, gentleと置き換えるとのこと。むかしたまたま読んだ、村上春樹・柴田元幸『翻訳夜話』 (文春新書)で、英語→日本語→英語と訳しなおしてみたり、2人で翻訳比べをしてみたりが面白かったのを思い出します。
私自身が高校生の頃、24年前、とにかく食いしん坊の馬(写真)がいて、その馬房に「born to eat」と誰かが落書きをしていて、それを見た私が「ああ、この語感は日本語では言い表せないな」と思ったこと、いまでも忘れられない。
曾祖母が下鴨神社の糺の森のとなりに昔ながらの家に住んでいて、それもあり京都にはよく行っていました。見覚えのある場所が多数。大文字焼きもなつかしいな。
川端康成のは、若いころはあまり読めなくて、『眠れる美女』(新潮文庫)しか実は読み切ったことがなかった。でも、いま改めて読んでみて、しっとりした、人と人との触れ合いにうっとりしました(京都の言葉で書かれているからかしら?)。とてもよかったです。最後の数ページ、電車降りたあとに、誰もいない駅でポツリとベンチに座って読み切りました。
京都の言葉でといえば、谷崎潤一郎も。まきおかシスターズや、『卍』とか:「あんた、こんな綺麗な体やのんに、なんで今迄隠してたん」 おすすめ。
プラトン『ゴルギアス』(岩波文庫)、Nさんの推薦図書、読了。
最後の方の、法・倫理をまげて不正を行なうくらいなら、自分は死を選ぶし、正しさにそういう意味で私は命をかけているとの下り。ああ、そうして不正を行なう者どもに死刑判決を下されてしまうのか...。そして、それでも逃げない、『ソクラテスの弁明・クリトン』(岩波文庫)を思い出します。
吉野源三郎『君たちはどう生きるか』(1937年)。子ども2人と行った西国分寺・クルミドカフェにあったので、読了。刊行された時代背景と著者の戦後の活躍を思いつつ読み、まっすぐな主張のひたむきさに感服。Oさんの推薦図書。
デカルト『方法序説』(1637年:中公文庫野田訳)を読了。
数学の才能があって、幾何学に数式を導入した元祖のような位置づけです。私たちが習う(x,y)座標の---平面や空間に独立する目盛りをつけて数値で表す---考え方もは「デカルト座標系(Cartesian coordinate system)」と呼ばれています。すごい人だったんだろうね。
まことらしさvs真理について、この書物には次のように書かれている。「まことらしさのほうは、あらゆる種類の事がらにおいてたいした骨折りなしに見いだされうるが、真理は、ある限られた事がらについて、少しずつしか発見されず、そのほかの事がらについて語らねばならぬことになれば、「それは知らぬ」と率直に告白することを強いるものなのである。(p.84)」。そうですね、まさにこれですね。古今東西に見られる真実なのだろうと思います。
江戸幕府3代将軍・徳川家光の治世に、欧州で出版されたもの。その220年後にはペリー来航。
これに関連してワインバーグ『科学の発見』(原題:To Explain the World---The Discovery of Modern Science)をお勧めしたい。1979年ノーベル物理学賞をとったワインバーグ博士の専門は量子論かな?
この本は古代ギリシャ時代の物理学を第1部で、その天文学を第2部で解説。「第8章 惑星という大問題」を最後に、つぎは「第3部 中世」だ。そして第4部で科学革命を5章にわたって解説。「第11章 ついに太陽系が解明される」にて、ティコブラーエ→ケプラーのあたりは、人類の英知につい涙を流してしまいました(スイミングスクールで子どもの泳ぎをみつつ読書)。地球は滅んでも生き続ける真理をつかんだ地球人よ偉大なれ。
この本は古代ギリシャ時代の物理学を第1部で、その天文学を第2部で解説。「第8章 惑星という大問題」を最後に、つぎは「第3部 中世」だ。そして第4部で科学革命を5章にわたって解説。「第11章 ついに太陽系が解明される」にて、ティコブラーエ→ケプラーのあたりは、人類の英知につい涙を流してしまいました(スイミングスクールで子どもの泳ぎをみつつ読書)。地球は滅んでも生き続ける真理をつかんだ地球人よ偉大なれ。
第13章「最も過大評価された偉人たち」でデカルトが酷評されている! 8ページにわたってデカルトの功績や理論的発見(『方法序説』ではうかがえない数理的な内容)を説明して、それらを受け止めたうえで、それでもなおかつ次のように酷評。
自然に関するデカルトの見解には間違いが多すぎるのである。「地球は偏長だ」という彼の見解は間違っていた。「真空状態はあり得ない」という彼の見解は、アリストテレスと同じく間違っていた。「光は瞬時に伝達される」という彼の見解は間違っていた。「宇宙は物質の渦で満たされており、その渦に乗って惑星は回っている」という彼の見解は間違っていた。「松果体は人間の意識を司る魂の座である」という彼の見解は間違っていた。[後略]彼の著作はネガティブな影響を確実に一つ及ぼした。それは、これによってフランスでのニュートン物理学の受け入れが遅れたことである。純粋理性によって科学的原理を導き出すという、『方法序説』に説かれているプログラムは決してうまくいかなかったし、いくはずがなかった。ホイヘンスは若い頃デカルトの信奉者だったが、やがて、「科学的原理とは仮説に過ぎないものであり、その原理から導き出される結果と観察結果とを比較して検証しなければならないものだ」と理解するようになった。(p.278)
だってさ。デカルト云々はよくわかりませんが、この『科学の発見』は面白かったですよ、『方法序説』とともに。(注意、現代語訳とはいえ400年前の本はいまの感覚からすると、なれるまで読みにくいので、なれましょう)
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