サバティカルをとらせてもらって、1年間、ミシガン大学に訪問研究員として滞在します。子ども2人も連れての米国生活。2008年3月末にカリフォルニアから日本に戻ったので、それ以来、14年ぶり。
2022年3月30日
2021年3月20日
卒論TIPS集:卒業論文の校正添削でのコメントまとめ。
卒業論文TIPS集
I. 文章の書き方について(最重要!)
- 原則1:文は、客観的事実やデータ、または、自分の主観的意見や見解のどちらかで構成される。客観と主観を明確に区別しながら書くこと。
- 原則2:「主観」を客観的に表現することで、その「主観」が読み手に伝わるのを理想とすること。
- 事実は、そのすべてにデータや出典をつけるつもりで書くこと。「AはBだ」と言い切るときには、その心得として「Xによれば、AはBだそうだ」あるいは「私の独自調査によれば、AはBだ」という形態をとるべきである。それがなければ、主観的意見(感想)か不確かな伝聞にすぎない。自分以外の人の主観的意見は「鈴木(1997)は、~~と主張した。」という客観的事実として記述すればよい。
- 「~とされる」「~といわれる」表現は、その~部分を誰がいったかわからないので使わないこと。代わりに「~だ。」と断言する。断言することで不安になるのは、調査が足りないから。情報ソースをしっかりそろえること。
- 客観的事実を記述するべきところに、主観的評価をすべりこませるような修飾はなるべく使わない。
(1) 「~が多い」や「~が高い」といった形容詞表現は、その評価が主観によるので、単独ではなるべく使わない。
代わりに、あるいは補足として、客観的な数字やデータを出典付きで使うこと。そのデータを読み手が知った時に、「なるほど、『~が多い』というのは本当なのかもしれない」と主観的に納得してもらえることを目指す。
例えば、「■■社は〇〇市場においてゆるぎない地位を占めている」は、ゆるぎないという主観的表現があるのでよくないし、はっきりいえば、そのせいで下品な文になっています。代わりに例えば、「〇〇市場における年間売上高順位では1991年から2002年まで××社が首位にあったが、2003年以降現在に至るまで■■社が首位にある。またその売上高シェアも2008年以降50%を下回っていない(データ出典)。」と書くとすこし客観的になる。「ゆるぎない」はこういうことでいいですか? ちゃんと説明できるはずですよね。
(2) 「きわめて~だ」「明らかに~だ」「非常に~だ」といった形容動詞表現は、その評価が特に主観的になるので使わない。
(3) 「前代未聞」、「空前絶後」などの派手な四字熟語も使わない。「ゆるぎない地位」だとか「~が叫ばれる現代」、「~~といっても過言ではない。」といった比喩表現や慣用句はきわめて下品だ。「~なのだ。」も同じように不要な表現であるので、使わない。 - 1段落1メッセージを心がける。1メッセージに1段落を使う。そのメッセージはトピックセンテンスの1文に集約される。トピックセンテンスは、段落冒頭に書かれることがほとんどだ。段落内の文章はそのトピックセンテンスについての補足説明という位置づけになる。したがって、トピックセンテンスだけを抜き書きすれば、あらすじがわかるような構成にすること。
- コロケーションに気をつける。単語には対となるきまった動詞があるので、それを使うこと。わかりやすい例でいえば、「雨は降る」のであって、「雨が落ちる」とはいわない。ふだんからよく使う単語であればこうした間違いはしないが、正確性を重視する説明文を読みなれていない人が論文を書くと、こうした間違いをおかすようである。「印象を行う」「突出して低くなる」のような誤りをこれまでにたくさん見てきました。
- しっくりくる言葉や言い回しが見つからないときは、実は、十分な説明をしないまま複数のことを1文に詰め込みすぎていることが多いという印象を私はもっている。
例えば、「ゲームをプレイするときの集中力の低下傾向の変化は~」のように、節や単語だけで説明しようとしないで、丁寧に2文か3文を書いてまずは状況を説明して、それから主張したいことを記述すること。
II. 著作権、「引用」や孫引きについて
- 著作権侵害をしないこと。
(1)盗用しない、パクらない。他人の著作物(他人が書いた文章やフレーズ、発言、良いアイディア、気の利いた言い回し等)を、①出典表記をしないで、②転載や転記をすること、あるいは、少し書き換える等して使用することは、違法行為です。絶対にしないこと。少しだけ書き換えれば良いというのは通用しません。自分があたかもやったかのように装うことは、むしろ悪質です。
(2)正しく引用すること。どこがあなた自身の言葉で、どこが引用(転記)なのかを明確に区別できるような引用をすること。出典表記があっても、正しく引用していなければ、それも違法行為となりえます。例えば、長すぎる引用は著作権侵害にあたる場合もあるようです。他人の労力にただのりするような行為を慎みましょう。 - 引用文をメインにして論文を構成しないこと。出典表記があり、正しく引用されていたとしても、引用を継ぎ接ぎしてできた文章はあなた自身のオリジナルな論述にはなりません。あなた自身のオリジナルの記述を主として、どうしても必要なところだけを従として引用すること。
例えば、地球の四季を知らない人に「春夏秋冬」について簡単に説明してみてくださいと言われたら、あなたはオリジナルの言葉で説明できるはずです。ちょっとやってみてください、
それなりにうまくできますよね? それはあなたが四季についてよく知っているからです。四季のことをよく知らない人が仮にいたとすれば、おそらく、百科事典やwikiなどの記述を切り貼りして、四季とはこういうことだと知ったかぶりをする他ないでしょう。つまり、論文を書くのであれば、自分のオリジナルの言葉で言い表せるくらいに、そのことについて知識を深める必要があります。これが「あなた自身のオリジナルの記述を主として」という意味です。
でも、記述をさらに詳しくしようと試みて、例えば、いま住んでいる場所の平均気温の情報や、行政上の定義などを記述に加えたいと思ったときには、引用が必要となるでしょう。あるいは、春が文学作品のなかで重要なイベントとして扱われているとあなたがオリジナルな記述として主張し、そのために、文学作品で実際に春がどのように描かれているのかを例示したいときには、その文学作品の該当箇所を正しく引用する必要が出てきます。こういう場合が、「どうしても必要なところだけを従として引用する」ことになります。 - 孫引きはしない。原典を入手して確認することを原則とします。例えば、『ミルの自由論を読む』という本に「ミルは、「○○××である」と述べ、~~を是としている」という文をみて、あなたが『自由論』を読みもしないで、ミルも「○○××である」と述べていると書くのはズルです。仮に『ミルの自由論を読む』を参考文献に挙げていても、ズルです。
III. 体裁について(よくある誤字・誤用を順不同で)
以下の箇条書きの注意点を読んでも、まったく同じ誤りをおかす人が多いです。ひとつひとつ、理解してから自分の文章をチェックしてください。- 「図1.1 卒論の種別」といった図のキャプションは、図の直下につける。
- 「表1.2 記述統計表」のような表のキャプションは、表の上に。最近は変わりつつもあるようだが、図表のキャプションの付け方は依然これがアカデミアの基本である。筆者自身は図のキャプションは図の上につけるほうがわかりやすいと思っていますが、型破りするほどでないはずです。
- 図には、本文を読まなくても、その大まかな内容と図の主張がわかる詳細なNotesや註釈を付けること。経済学の論文では図に註釈をまったくつけないこともあるが、よくないカルチャーなのでまねすべきでないと筆者は思っています。
- 半角と全角とを混合させないで、どちらかに統一すること。
(1) 数字の全角は「1985年」、半角は「1985年」。
(2) 引用符の全角は「“”」、半角は「””」。
(3) アルファベットの全角は「ABC」、半角は「ABC」。
(4) スペースの全角は「 」、半角は「 」。 - 「開く引用符」と「閉じる引用符」を正しく使いわけること。両方とも閉じるになっている誤用をよく見かけます。フォントによって見分けがつかない場合もあるが、開くほうは66のような形で、閉じるほうは99のように見える。
- 日本語で脚注番号の挿入位置は句点の直前である。句点の直後にするのは誤用。英語ならばピリオドの直後に空白をいれずに挿入する。
- 文末に()で註釈をつけない(このような例外も時としてあるなどと書かない)。カッコをとり、本文の一部として自信をもって記述するか、脚注にいれる。あるいは、本筋からはずれた註釈ならば削除する。
- 文末に文献を参照するのであれば、このようにする(Takeuchi, 2011)。この場合()内は文章の一部なので、句点はカッコの後につける。「このようにする。(Takeuchi, 2011)この場合」とするのは誤り。
- 脚注での文の末尾にも「。」や「.」をつける。忘れる人が少なくないです。
- 数式も文の一部なので、数式で行が終わり、直後から新しい文が始まるようなケースでは式の直後に「.」をうつ。直後から文が継続する場合は、式の末尾に「,」をうつことも多い。この原則は、数式が独立した行の中央部に書かれているようなケース、つまり、次のような式の書き方のときも通用する、
u(x) = log(x).
前の文は「log(x)」で終わっているので、直後にピリオドが必要。 - カンマやピリオドの直後には半角スペースを入れること。英語の授業で習わないのか、これを忘れる人が多い印象。
- 「et al.」と書く、斜体でなくともよいがピリオドを省略はしない。最後のピリオドは名前の一部みたいなものなので直後にカンマがくるときはカンマの直前の空白はいらない。「et. al.」「etal.」も間違い。エタールのように読み、英語でいえば“and others”、日本語では「たち」「ら」の意。
- ページ番号で、見開いた場合に表示されるのは、2kと2k+1 の組であって、2k-1と2kではない。つまり、横書きであれば、左側が偶数で右側が奇数になるし、縦書きであれば、右側が偶数で左側が奇数になる。
- ページ番号は、タイトル頁を開始番号iとして設定するが、表示はしない。第1章がはじまる直前までのまえがき等では、は ii, iii, iv… と続く。第1章から1, 2, 3, 4… と続く。学術書を参考にすること。MSワードでページ番号の種類を変えたい場合には「セクション区切り」を使えばよい。
- 1文字だけ行頭にあって、すぐに改行となるような体裁にはしない。表現等を変えたり文字数を増減したりして調整する。

「い」のような体裁にならないよう文字数などを調整すること。 - 1行だけページトップにあって、すぐに改ページとなるような体裁にしない。
- ページ最下部に、段落小見出しだけがあり、それに続く文章は次ページ冒頭から始まるような体裁にならないように編集すること。MSワードであれば「スタイル」を正しく設定することで回避できるはずです。
IV. 参考文献(References)の書き方について
本質的でないところだが、最も簡単に粗探しができてしまうところが参考文献表記である。本質的でないが、こんなところで誤記があるような論文は、中身もきっと怪しいと判断されうるだろう。書き方については、いろいろなところに解説があると思うので、ここでは詳説しない。- 既存の論文等の参考文献表記を参考に、一字一句まねる。カンマなどを勝手に省略しない。これができない人は数式展開や統計分析でも必要な手順を勝手に省略していたり誤用していたりするかもしれないと私などは感じてしまう。
- 一貫性と整合性をもって表記する。一貫性がないのは、例えば、あるエントリーでは最終著者の前に「&」をつかったのに、別のところでは「and」であるようなこと。他には、あるエントリーでは、ファーストネームが1文字だけのイニシャルに省略されているのに、他では、フルネームで表記されているなど。あるいは、Vol.4, No.2 とあったかと思えば、ほかでは 4(2) になっていたり。このような不整合が発生してしまう可能性はたくさんあるのでよくよく注意。
- 和書書籍と和文学術誌の名は『』で、和文論文題名は「」でくくる。
英文は『』を使う代わりに名を斜体で表記し、論文題名は「」ではなく“”でくくる。これも間違える人が多数。 - 日英をわけてそれぞれ五十音順とアルファベット順に並べてもよい。あるいは和文献著者名をローマ字読みして、全部をアルファベット順にしてもよい。
V. ワードの便利な使い方について
- まず「編集記号」を表示しよう。下図で赤矢印の先をクリックすると表示できる。これで改行マークや挿入された空白が見えるようになります。
- スタイル機能の活用を原則とする。章のタイトルは「見出し1」、節のタイトルは「見出し2」としておけば、目次も自動で作成できる。上図の赤矢印の右側に「あア亜」と表示されている部分で、スタイルを設定できる。
- 水平位置を調整するためにスペースを挿入しないこと。「インデント」「右寄せ」「センタリング」を使うこと。水平位置をそろえる1つの方法は、キーボード左にあるTABキーを押して「タブ」を挿入すること。あるいは、「ルーラー」も使おう。上図で楕円で囲んだ部分にある「ルーラー」を一時的に使う。ルーラーが見えないときは「表示」タブで表示できるように設定する。ただし、文書全体での処理ではないので統一性が損なわれます。あまりおすすめしません。
- 縦方向の間隔調整のためだけに改行を挿入しない。代わりにスタイルを活用する。例ええば、節タイトルを見出し2にして、見出し2の書式に「段落前」は1行空けるといった設定をすればよい。
- 「改ページ」機能を使う。改ページのために改行を挿入しない。
- 参考資料「図表番号の挿入」を使う。この機能を使っておけば、図表の追加削除したり、順序を変更したりしても、自動的に番号をつけなおしてくれるし、図表目次も自動的に作成できる。
- 式番号やページ数を相互に引用するときなどは、「相互参照」を使う。
- 箇条書きなどで番号を改めないものの改行したいというときは「Shift+Enter」を打つ。
- 上級者は「フィールド」も使いましょう。ワード内で使える変数のようなものです。
VI. そのほか
卒業論文の構成について
次のような構成になるはず。- タイトル頁(次の偶数ページは空白にする。このあたりは専門書を参考に。)
- 要約(フォーマルな内容のもの。パーソナルには一切しない)
- まえがき(optional. この卒論の内容紹介とそれを書くにいたった簡単な経緯。すこしパーソナル。)
- 目次
- 図表目次
- 第1章
- 第1節
- …
- 第N章…
- Appendix
- A1. ….
- A2. ….
- 参考文献 ← Appendixの前におくことも多いが、参考文献最後のほうが締まる。
- 索引 ← 専門用語や事例がたくさん登場する場合にお好みで。
- あとがき(大学生活やゼミ活動や卒論などを振りかえるパーソナルな感想。)
- 奥付 (ページ番号いれない)
製本や印刷について
カラーページはカラー印刷のこと。両面印刷でも片面印刷でも可。インクジェットプリンターによる出力は不可。必ず、レーザープリンターでの印刷にすること。上質な紙を使い、再生紙は避けよう。自分用にぜひとも1部を製本しましょう、数千円をケチらない。できれば保護者さんにも1部。2021年1月19日
ゼミでの定番図書。学生の「推薦図書」を教員が読んで、図書券3000円も配ってみたのだけど。
Iさんの推薦図書、読み終わりました。弁証ではなく、単なる演説テクニックとしての弁論術について、現実主義者のアリストテレスが解説した書物。いまから2300年くらいまえの講義録・著述が現代に伝われる。おもしろい。
「演技的要素の研究など低俗なことだと思われているが、そのように見るのも正しいのである。しかしながら、弁論術の仕事は、その全体が聴き手はどう思うかに向けられているのであるから、そのような表現方法(話術)を、正しいこととしてではなく、説得に必要なことと考えて、それに関心を寄せるべきである。なにしろ、弁論に関しては、本当に正しいことというのは、聴き手に苦痛も与えなければ悦ばせることもないように語って、それ以上は求めないということなのだから。なぜなら、正しいのは、事柄そのものをもって争うことであり、したがって、証明以外のことはすべて余分だからである。とはいえ、上でも言ったように、聴き手が能力を欠いているため、演技的要素は大きな効果を発揮する。」
「聴き手によく判って貰うためには、望みとあれば、語り手はありとあらゆる手段をこれにさし向けることであろう。優れた人物と思われる、というのもその一つである。というのは、聴き手はそのような人物により一そう注目するからである。聴き手はまた、重要なこと、自分に深く関わりあること、驚嘆すべきこと、快いことに注目するものである。それゆえ、弁論がこのようなことに関わっているかのような印象を植え付けなければならない。(p.374)」
新田次郎『孤高の人』
ジャレド・ダイアモンド『銃・病原菌・鉄』、読了。
「さて、例の総督[ペドラリアス・ダビラ]の統治期に、総督自身が手を下したり、部下が行うのを容認したりした犯罪行為は数え切れないほどあり、以下にその一例を記そう。あるひとりのカシーケ、つまり、インディオたちの首長が総督に9000カステリャーノの金を差し出したことがあった。...ところが、スペイン人はそれだけでは満足せず、その首長の身柄を拘束し、地面に立てた一本の杭に縛りつけ、それから、両脚を引っ張り、足元に火をあて、さらに多くの金を差し出すように強要した。首長は部下を自分の館へ遣り、さらに3000カステリャーノの金を持参させた。しかし、それでもスペイン人は満足せず、ふたたび首長に拷問を加えはじめた...そのまま首長の足を炙りつづけたので、とうとう、足の裏から骨が突き出てしまい、そうして、首長は息絶えた。...スペイン人は金を奪うために大勢の首長を殺したり、苦しめたりしたが、それは一度や二度のことではなく、数えきれないくらい頻繁に行なわれた(版画6)。(pp.71-72)」。
三浦綾子(1968)『塩狩峠』読了。
刈谷剛彦(1996)『知的複眼思考法』読了。
「考えるという行為は、その考えが何らかのかたちで表現されてはじめて意味を持つもので...しかも、考えたことを文字にしていく場合、いい加減であいまいなままの考えでは、なかなか文章になりません。何となくわかっていることでも、話し言葉でなら、「何となく」のニュアンスを残したまま相手に伝えることも不可能ではありません。それに対して、書き言葉の場合には、その「何となく」はまったく伝わらない場合が多いのです...あいまいではなく、はっきりと考えを定着させることが求められるのです。」
『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』読了
2020年11月9日
アメリカ大統領選挙:敗北宣言かくあるべし。

1973年に帰国後、1983年から下院議員、つづいて1987年に上院議員となり、亡くなる日まで32年間現職議員を務めた。
トランプ氏の資質について、マケイン氏は2016年の選挙前から懐疑的であった。また、オバマ大統領の健康保険制度(いわゆる、オバマケア)を、2017年にトランプ政権が改廃する法案を議会に諮った際には、マケイン上院議員は造反、反対票を投じている。彼の反対票があり、法案は49対51で否決された。

マケイン氏は、2008年に共和党候補として大統領選挙に出馬し、民主党のオバマ候補と選挙戦を争う。オバマ候補の当選が決まった夜、マケイン氏は敗北宣言の演説を行った。そこで彼は、オバマ候補を讃え、アメリカ初の黒人の大統領誕生を祝い、そして、共和党か民主党かを問わず、アメリカ国民としての団結を強く訴えかけた。その演説には、心をうつものがある。
ーーーーーー
以下は2008年11月4日の夜、オバマ大統領誕生が決まったあとに行われた演説である。
皆さん、私たちの長い旅はついに終わりを迎えました。アメリカの人々は決断をし、それもはっきりと決断を示したのです[=オバマ候補が当選したこと]。さきほど、私はバラク・オバマ上院議員に電話をし、[会場からブーイング、それを制するマケイン氏]、その電話のなかで、私たち2人ともが愛するこの国の次期大統領に、オバマ上院議員が選出されたことを祝福する栄誉に浴しました。
この選挙戦のように長く困難な戦いにおいて、オバマ候補の成功をみることで、私は、彼の能力と忍耐力に敬意を感じざるを得ません。なによりも私がオバマ候補を称賛する点は、かつてアメリカの大統領選挙では影響力などないと信じ込まされていた多くのアメリカ人[黒人たち]に希望をあたえ、この選挙戦で勝利したことにあります。

黒人がついに大統領に選ばれた歴史的な選挙です
今回の選挙は、[これまで虐げられてきた黒人がついに大統領に選ばれたという点で]歴史的な選挙であります。この選挙は、アフリカ系アメリカ人にとって特別な意味を持つはずで、今夜、彼らの尊厳が現実のものとなったのです。
2020年10月13日
ノーベル経済学賞はオークション理論分野に。電波オークションに複数財・組み合わせオークションを導入。
2020年ノーベル経済学賞は、スタンフォード大学のポール・ミルグロム教授とロバート・ウィルソン名誉教授が受賞しました。「オークション理論の改良と新しいオークション形式の発明を評して」が理由。
応用事例としてまっさきにあがるのが、米国FCC(連邦通信委員会)の「電波オークション」「周波数帯オークション」です。これは、携帯端末事業などに使える無線周波数帯の使用免許を競売にかけるというものです。市場規模は何千億~数兆円になると思います。
「新しいオークション形式の発明」というのは、複数の財を同時に売り出す「組み合わせオークション(複数財オークション)」に関するものでしょう。これは、入札者が複数の財を組み合わせて「パッケージ」とすることができて、そのパッケージごとに値段が異なるのが特長です。
組み合わせオークションは、複数の使用免許を同時に競売にかけるのに適しています。全米の無線周波数帯使用免許といっても、全米をカバーする使用免許がひとつだけ競売にかけられているのではありません。全米をいくつかの地域にわけ、それぞれの地域での使用免許が同時に競売に出されます。組み合わせオークションでは、個々の免許を別々に競り落とすのではなく、複数の免許のうち、いくつかを組み合わせてパッケージを作り、そのパッケージに入札することが可能になっています。
Exposure Problem(露出問題)を解決
組み合わせオークションがつかえない場合の問題は、Exposure Problemです。たとえば、テレビ地上波の電波利用権を地域ごとに競売にかけたとき、
価値(地域A)=2000億円
価値(地域B)=2000億円
という経済価値がある場合でも、
価値(地域A+地域B)=8000億円
という価格付けも十分にありえます。これは、当該事業者にとっては地域間に相乗効果が見込める場合です。2地域で同時に放映できれば、それぞれの価値2000億円×2地域に加え、相乗効果分4000億円が追加されると考えてみます。
以上のような相乗効果が見込めるケースでは、1地域ごとの利用権をばらばらにオークションにかけることは望ましくありません。なぜなら、相乗効果を見込めたとしても、パッケージで入札できないかぎり、そうした相乗効果分を入札値に反映させにくいからです。この問題が、入札者が片方の財しか入手できず赤字に陥ってしまうリスクにさらされる(exposed)ので、"Exposure Problem"として知られています。例えば、競り上げオークションの途中で、
競り値(地域A)=3000億円
競り値(地域B)=3000億円
となった場合は、どうすればよいのでしょう。
両方を競り落とすことができれば、両方合わせた価値8000億円に対して、支払いは6000億円なので、競り上げてもよいかもしれません。でも、もし、片方しか競り落とせなかったら、大損です。
ですから、ABをセットで6500億円という値付けでもできないかぎり、競り上げオークションはここで止まってしまい、財の配分は非効率的で、オークション収益も最大化されません。こうしたExposure Problemの発生を避けるためには、パッケージオークション、組み合わせオークションが有効なのです。
Threshold Problem(閾値問題)
では、組み合わせさえできれば、問題は解決するのかというとそうではありません。Threshold Problem という、もうひとつの問題があります。例えば;
事業者X 価値(地域A) =100億円
事業者Y 価値(地域B) =100億円
事業者Z 価値(地域AB)=130億円
という経済価値がある場合にそれが起こります。収益を最大化する配分は、事業者X・Yに、それぞれ地域Aと地域Bのライセンスを100億円で供与することです(収益131億円)
ところが、組み合わせ競り上げオークションの途中で、
事業者X 競り値(A) = 60億円
事業者Y 競り値(B) = 60億円
事業者Z 競り値(AB)=125億円
となったら、何が起こるでしょうか。ここで、事業者XとYの間にタダ乗り問題が発生します。本来ならば、XとYがそれぞれ、65億円に同時に競り上げれば、事業者Zからライセンスを取り戻せます。しかし、入札参加者同士のコミュケーションは禁止されているのもあり、それは不可能です。
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すると、XかYかのどちらかが、あと10億円上乗せしてくれれば、事業者Zに勝てるわけです。ここで、XとYはお互いにそれを期待しながら、無駄に時間が経ち、オークションは終了してしまうかもしれません。そうなると、オークション収益は129億円で、最大化されず、ライセンスの配分も経済学的に非効率的となってしまいます。
このように、組み合わせオークションをそのまま使えばよいというわけではありません。競り上げオークションには、独特のダイナミズムがあり、そのなかではオークション参加者同士の相互作用や学習が起きます。これを分析するのには、経済学で特に発展したゲーム理論が有効だったという背景があったのです。ミルグロム教授の大きな貢献のひとつがこの分野での大活躍です。
2020年9月4日
「トイレ後の手洗い推進ステッカーに関する調査結果」:実験調査で重要なポイント
東京都福祉保健局のステッカー試作品(東京都食品安全情報評価委員会資料より)
東京都福祉保健局が、主に調理従事者の手洗い促進ステッカーを試作し、その効果測定も実施した。新型コロナウイルスが流行する直前の1月~2月での調査。その結果が、「令和元年度第2回 東京都食品安全情報評価委員会」にて報告されている(議事要録等)。
上の図は、東京都福祉保健局による手洗い促進ステッカー。左のA案は「試験中」とすることで”見られている”感を醸し出すのがねらいで、右のB案は損失を強調するコンセプトで作られている。調査目的は、新型コロナウイルス感染予防のためではなく、食中毒を予防するための「調理従事者の手洗い」促進である。
飲食店等の調理従事者による手洗い実施率の向上を図る観点から、手洗いの意義等を認識しながら行動につながっていない調理従事者に対して、トイレ後の手洗い行動の変容を促すため、より効果的なステッカー原画について検討することを目的として、本調査を実施した。
C案は、手のステッカーを複数用意して、トイレの様々な場所に貼る。そして、利用者の興味を引き出したところで、手洗い場で「石鹸を使おう」と呼びかけるもの。
効果のあったステッカーは?
この3種類のステッカーを、(1)調理師養成学校、(2)都関連施設、(3)保健所[食品事業者向け講習会開催日]のトイレに掲示し、石鹸の使用量を調べた。調理師養成学校と保健所では、手洗いの効果がデータで示されたうえで、雇用者や保健所に観察されていると訴えるA案の効果が高かったとのこと。
場所によって効果は異なるのかも
ただし、都関連施設ではB案の効果が高いと出ている。利用者が都職員とあるので、おそらく職場のトイレでの石鹸使用量の観察だろう。やはり飲食店や食品事業の関係者でないからなのか、手洗いしないことの損失をホラー仕立てでカジュアルに訴えるB案のほうが効果があったということなのかもしれない。

「ナッジ」の調査で重要なこと
政府/公共機関による啓発事業において、A/Bテストが行われ、そして、A/Bテストの結果が公開資料になっているのはとても良いことです。ただし、いくつかもったいないなと気になる点がありましたので、列挙してみます。同様の調査をお考えの政策担当者の皆さんにお役にたてば幸いです。
(1)ランダム化比較試験(RCT)でない。
RCTでないところはやはり気になります。例えば、保健所での調査では、ステッカーA案を掲示する保健所Xと、B案を掲示した保健所Yは、別の場所でした。これでは「保健所の調査ではA案の効果が高かった」といいきれず、「保健所Xでは、ステッカー掲示の場所がよかっただけ」といわれたら否定できない。もちろん、調査対象とできる場所が限られているので仕方ないことですが、せめて、3日目にはステッカーの種類を入れ替えて、保健所XでB案、保健所YでA案としたほうがよかったです。そうすれば、保健所による(例えばステッカー掲示場所の)違いに起因する効果をある程度相殺できたはずです。
(2)統制群(コントロールグループ)がない!
これも気になります。ステッカーの効果をみるときは、ステッカー使用前と使用中を比較するだけでなく、なるべく、ステッカーを使用していないトイレ(統制群)との比較をすべきです。前後の比較、A案とB案の比較も大事ですが、なによりも統制群との比較は不可欠です。それによって、ステッカーの効果が本当にあったかどうかについて推測もできます。
(3)サンプルサイズを考慮にいれていない。
例えば、都関連施設での調査では、ステッカー3種類×観察期間3週×男女トイレ2種類で、N=18。このサンプルサイズだと、石鹸使用量の増加は誤差の範囲にすぎないといわれてしまえば、全く否定できません。
石鹸使用量を各要素(男女、フロア、ステッカー種類)で説明するための単純な回帰分析の結果は次の表のようになります。石鹸使用量にいわゆる”有意差”が出るのは、女性であることだけで、ステッカーの効果は確認されません(これにしても、女性が石鹸を多く使っているからなのか、女性の利用者が多いからなのかも、利用者数を記録していないのでデータからは判別できません)。

(4)セグメント化していない。
(5)ステッカーデザインの全体が案によって異なるので、効果の差異の説明がつかない。
工夫を凝らしてステッカーのデザインを複数作り込むのは重要です。しかし、A案に効果ありとデータが示していても、それはなぜなのかがまだわかりにくいです。例えば、A案の赤色に起因するのか、それともメッセージ内容によるものなのかが全くわからないので、次のデザイン考案に活かすことができないのが残念です。もし、効果量が異なることの原因(要素)を探りたいのであれば、ステッカーのなかに交換可能なパーツを用意し、そのパーツ部分だけを変更すればよいでしょう。そうすれば、甲案と乙案の効果の違いはそのパーツ部分にあると限定できます。もちろん、その分、甲と乙の効果量の差は縮まってしまうでしょうから、結果のインパクトと原因追求とはトレードオフにあります。
(6)ステッカーの汎用性がない。
A案のステッカーでは手洗い効果を「試験中」となっており、たしかにこの調査では試験中ですが、このステッカーをそのまま全国で使用することはできません(普及版では「検証中」とされていますが、福祉保健局が本当に「検証」しているわけではないでしょう)。また、B案もホラーの要素が強すぎて、お客さんも利用するタイプのトイレでは到底使えないし、ナッジの「面倒なことでも前向きに取り組める」ように誘導する理念にそぐわないように思いました。せっかくですから、すぐに全国規模で使えるものだと良いですね。
上記のような気になる点はいくつかありますが、効果測定や結果の数値を、公開資料としてウェブサイトに見えるようにしてあるのは、とても素晴らしいことだと思います。その点は、東京都福祉保健局の担当者・企画者の方に本当に感謝です。
2020年4月14日
給付金(ヘリコプターマネー)は景気刺激になるのか
「納税者の皆様へ」
給付金は消費にまわるのか
給付タイミングをランダム化して効果検証
2020年2月17日
「となりの人は石鹸で手を洗っていますか?」新型コロナウイルス対策にも。手洗いを促す行動経済学とナッジ
1) 床に矢印ステッカーを貼って洗面台に誘導
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| 矢印ステッカーによる洗面台への誘導効果 (Blackwell, et al., 2018) |
2) 子どもも足跡をたどって手洗い場に行く
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| トイレを出てからポリタンクに誘導する (Dreibelbis, et al., 2016) |
2019年10月10日
公共財の過少供給としての少子化
20世紀前半までは女性差別を背景に"安価に"子どもを産み育てる経済体制であったわけです。20世紀後半に女性差別をやめる経緯をたどったのだから、それに合わせ、子育て部分は公共化する必要もあったのです。しかし結局、伝統的価値観をもつ有権者の多数や政治家たちには、その発想の転換ができなかった。これが失敗の本質でしょう(あくまで、少子化が問題だという前提をとるなら、です)。
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| 『金融ジャーナル』(2014年5月号)に載せていただいた 論考です。出生数90万人のニュースを受けて。 |
はじめの課題2つは少なくとも目先では解消されたようにもみえる。より重要で深刻な3つ目の課題を考える際、これまで経済メディアが気づかなかった論点を取り上げたい。特に少子化対策として挙げられる育児支援策について考える。
日本の将来を見据え、働く女性を増やしたい、出産後も働き続けられるように保育所を増やすべき…といった主張をよく目にするようになった。経済メディアで挙がる処方箋はほとんどすべてが「規制緩和」。保育園運営への参入規制をゆるめたり、保育士の資格をもつ職員の比率を下げたり、職員1人当たりの子どもの数を増やしたり、同じ部屋にたくさんの子どもを詰め込んだり。要するに保育園に関する規制を緩め、質の悪い保育園をつくることを許可すれば、保育ビジネスへの参入が増え、親が子どもを預けて働きやすくなる、という理屈だ。
私はこういう主張を見るたび、保育園を利用する働く親として苛立ちを覚えます。子どもの安全や発育を軽視するいいかげんな主張であるだけでなく、このような規制緩和をすれば問題は解決するという発想が、単に経済学的に間違っているからだ。
経済学者である私は、市場原理信奉者でもあるわけで、そんな私が規制緩和に懐疑的なのを意外に思われるかもしれない。しかし、規制緩和を主張する論者は経済学者や経済学の知識を振りかざす人たちだが、その多くは経済学の基本的理解が浅いとしか思えない。ここでキーワードになるべきは「公共財」と「外部性」だ。
公共財とは、多くの人が広く便益を享受する財・サービスのことで、おカネを払う当事者以外の人も、そこから恩恵を受ける。外部性とは、費用を負担していない第3者にも便益がおよぶ財の性質である(これを正の外部生という)。市場経済では、公共財や正の外部性をもつ財は適切に供給されず、社会的にみて過少にしか生産されない。これは公共財の過少供給という「市場の失敗」として経済学の教科書に必ず登場する現象だ。
したがって、政府が税金という形で強制的に費用を徴収し、政府自身が公共財を追加的に生産・供給したり、生産者に補助金を与えたりすることで、その市場の失敗を補正すべきだと考えられており、現実の政策もこうした理論を根拠にしている。
公共財と外部性、そして過少供給というキーワードで少子化問題を考えれば、新しい視点が開けるだろう。少子化が経済社会の根本を揺るがすというのであれば、子どもも公共財といえよう。あるいは、家族だけでなく社会全体に正の外部性をもたらす財なのだ。小学校や保育園など、子どものための財政支出はなされているが、まだまだ市場原理に任されている部分が多いために、公共財としての子どもの過少供給が起きている―――これが少子化の本質だ。
これまで子どもの数を維持するための政府介入はそれほど必要ではなかった。かつては女性差別にのっとって、家事労働や育児を女性に安価で担わせていた面があったからだ。20世紀後半の女性差別撤廃は、まさに人権の回復過程であるが、経済的な観点から見れば規制緩和に他ならない。女性の職業を原則として育児や家事に限定する規制(人権の観点からみれば性差別)がなくなったのと同じことが起きたのだ。労働者を解放したのだから、その結果として当然、子育ての機会費用があがっていった。
もし本当に日本の経済社会が子どもを必要とするなら、その子育て費用を親や家庭だけでなく社会が負担する必要がある。子ども関連に財政支援を与えることは、人権や福祉の問題ではもはやなく、市場原理や経済学の観点から見ても、当然の帰結である。
ところが、子育て関連の財政支出はさほど伸びていない。たとえば、OECD各国の家族や子ども関連支出を見ると、日本における「子どもの過少供給」の要因がわかる。日本は未就学児への社会支出(教育・社会保障給付など)がOECD加盟国で最低水準だ。一1人あたりの支出が1位のルクセンブルグで年間11万7000ドルに対し、日本は32カ国中28位で1万9000ドルに留まる。日本よりも少ないのは、韓国、ポーランド、チリ、メキシコ。
日本の未来を担う世代であり経済社会を支える子どもを増やしたいのならば、相応のコストを払わなくてはいけない。それは子育てにかかる費用を財政によって支えることにほかならない。財政的な裏付けもないままに、規制緩和でどうにかしようというのは甘い話だ。
「子育て」というと、ソフトな“女・子供の”話だと思うかもしれない。けれどもそれは、経済成長を決める一分野である。今の日本が抱えている大きな問題は、そのことに気づいていない、ということだ。失われた20年の最大の失敗は「子どもが公共財であることに気づかなかったこと」。手遅れになる前に、行動を起こそうではありませんか。(2014年5月)
以上です。手遅れになってしまったのでしょう...。
「これぞ大学で出会いたかった授業」早稲田政経『実験経済学』
あるいは「自分が普段何も考えずに生きていたか、自分の無知さを再確認することができた。もっと勉強を重ねて色んな分野の知見を広げていきたいと初めて感じさせてくれる授業だった」。
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| 「うまい棒」で人気をとってるわけではないので、 このエントリーを書かせていただいております。 |
自画自賛は多分に含みつつも、早稲田の学生さんがくださった絶賛コメントを紹介しつつ、どのような取り組みが高く評価されるのか、そしてそれはなぜなのかを以下ですこしだけ紹介します。大学教育に携わるみなさまや、大学で経済学を学ぶ方にすこしでもお役に立てることを願います(自画自賛で読むに堪えないという方は、どうか読み進めないでください)。
5つの”特長”
コメントから講義を自己分析しますと、評価要因は大きく5つにあるようです。1. 経済学の位置づけの整理
「経済学の”机上の空論”というイメージを取り去ってくれた点。」「ミクロ経済学・マクロ経済学を受けるまえに受けると良い講義」「経済学がはじめて面白いと思った」「公平性・平等について重点を置いて議論がされている素晴らしい科目」
3.「今までのなかで一番おもしろい」と感じられる仕掛け
「これだけユニークな授業をしてくれる先生は他にいない」「今まで講義を受けた教授の中で、最も生徒に寄り添う教授」「大学の中で最も面白い授業」「今まで受けてきた授業の中で最も学生に興味を持たせようという意識」「こんなに面白くためになる授業をしてくださる教授は他にいない」
4.人生やキャリアについて考えるきっかけ
「まさか経済の授業で、自分が人としてどうありたいか、どう生きていきたいのか、考えさせられるとは思ってもみませんでした。4年生の今、この講義を受けることができて、本当に良かったと感じています。」「先生の授業はコリ固まった僕の思考に、ひとつ光をさしてくれたような気がして、とても感謝しています。いまはこのワクワクに身を任せてみたいなと思います。」
5.「これぞ大学で出会いたかった授業」と思うテーマ性
「自学自習の精神を著しく感化する授業」「未来の世の中をよくしてくれ、というメッセージがすごい」「人間として大事なものを教えてもらった」「思考を強制するのではなくあくまでも生徒の自主性に委ねている点。その一方で先生のメッセージははっきりしていて響く人には響くと思います。」
このエントリーでは、上記の1~3までの点について書いてみます。
字数も限られていますので全方面に向けて再反論は用意していませんのでご了解ください。
1.経済学の位置づけの整理
エッセイのエントリーでも書く(予定)ように、経済学を積極的に学びたくて経済学部にすすんだ人は実は少ないのです。経済学の研究対象や手法について関心も前提知識もないところに、ミクロ経済学理論を学んでも、なかなかしっくりこない人も多いようです。私自身も大学1年のときの経済学への期待と失望とがあり、悩んでいたので、大いに共感します。だからこそ、①社会科学としての経済学の特徴、②顕示選好理論のエッセンス、③「経済学を専門として役に立たせる」などを話しています。
①いろいろな社会事象のなかで何を問題とし分析対象とするのか。そして、その事象を社会科学としてどのように捉えるのか。例えば(初歩的に)、法学なら規範や制定法の観点からみるかもしれない、社会学なら歴史や文化や権力関係などだろうか、政治学なら制度かもしれない。経済学、特にミクロ経済学は「目のまえの社会事象は、なにかの最適化の結果の集合なのだ」とみなすのが特徴です。だから最適化問題を解く練習をすると話します。この前提を踏まえて、顕示選好理論や合理性(rationalizability)に話をつなげます。
次に、効用関数など非現実的だという疑問に答える形で、②顕示選好理論のことを話しています。非現実的すぎるという点については、まず、ミクロ経済学の公理主義的アプローチ、フリードマン(1953)「実証的経済学の方法と展開(下図)」のアイディアを紹介解説します。続いて、”規約主義”や非ユークリッド幾何学なるものの発見について触れることで、公理を基盤に構築される理論体系のイメージをつかんでもらえるようです。
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| 「仮説はその仮定の現実性によってテストされうるか」 |
ところが、ミクロ経済学は、そのどちらでもありません。抽象度は高いものの、その対象は「価格」といった極めて人為的な現実にあります。そのくせ、そのモデルの基盤となりそうな現実を探そうとしても教科書には一切でてこない。ここが混乱のもとでもあります。そこで、行動主義的アプローチ(≒顕示選好理論)を紹介しやすい実験経済学の利点が活きます。
まず、ある人の行動を、第三者である研究者が理論化モデル化するには、おそらくその人の脳内活動を直接観察するほかないだろう。それが不可能な現在は、とりあえずなにか「効用」なるものがあって、それを最大化しているかのようにその人は行動しているのだとみなす”as-if”アプローチで理論を構築する他ない。効用最大化なんて本当はしていなかったとしても、観察される行動と効用最大化理論が整合的であるかぎり"as-if"アプローチも悪くない。ただし、すこし心配になるのは、どういった行動に対してなら理論は整合的でいられるかだ。これにはすばらしい定理(Afriatの定理)があって、基本は推移性(と完備性・局所非飽和性)を満たしさえすればOKだといえる。逆に、推移性が満たされない行動に対しては"as-if"理論アプローチは基本的にお手上げである。だからこそ、教科書の最初に「推移性」が仮定されている。教科書によっては「人間はこうあるべし」だとか「推移性も満たさないような行動は分析に値しない」とも読める記述があるがミスリーディング。そもそも推移性が満たされないと標準的な理論では手も足もでないという謙虚な姿勢でもあるのだ。
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| 映画『ウォーゲーム』(1983)の最終場面も紹介してます |
ツェルメロ定理でいえば、ゲームのルールが決まると同時に、ゲームの結果も決まっているようなもので、公理主義的アプローチも「公理→→定理」を1セットとして運用すべきである。そして、どのような公理が目の前にある現実を表しうるのか考えたり、あるいは、現実社会のどういった部分を公理として議論をスタートさせるかが”適切か”を考えたりすると伝えています。
ここで述べたように経済理論が”規約主義”でいう規約にすぎないとすれば、当然、非現実的すぎて役に立たないといった批判が待っています。そこで専門として役に立っていることも話します。
③「経済学を専門として役に立たせる」
学生さんは一般的に労働市場で評価されるスキルについては学習意欲があるようです。そうした観点から、現実的でない経済学を学んだところで「役に立たない(≒高収入を得られない)」と誤解されてしまうようです。それを否定するひとつの手段として、オークション入札戦略のナッシュ均衡の導出をしています。最初の1階条件までをアイディアで説明し、微分方程式を一歩一歩展開し、均衡戦略を導出します。
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| オークション入札戦略ナッシュ均衡は微分方程式を解いて得られる。 導出過程をみながら、”数学が本当に必要な希少例”として紹介している。 |
こうした知識は、大学院レベルの教科書冒頭の数ページで解説されるもので、大学院レベル(=専門家レベル)は、この難しいモデルを出発点に様々に議論を拡張させているものなのです。そして、あるオークション研究者が受けた「400万円払うから、なにもしないで下さい」というオファーも話します。
さらに、司法省に就職し、週休2.5日で年棒かるく1000万円を超えるジョブに就いたクラスメート(PhD)の話や、私自身が移転価格チームから年棒1000万円超のジョブオファーをいただいた話をします。また、例えば、世界銀行の採用情報(英語)をスクリーンで一緒にみて、応募資格が「最低でも経済学修士号(できれば博士号が望ましい)」とされているのを確認します。
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| 世界銀行の採用情報のほとんどには「最低でも修士号。博士号(phD)が望ましい」とある。 |
これだけではなく、たとえば、
効率と公平がバランス良く議論されている。経済学なので効率性が一つの重要な価値基準として議論が進められているが、公平性についても注意が払われているし、差別や平等の問題についても非常に重点を置いて議論されていると思う、これはすごく大事なことだと思う。というコメントもいただきました。これは、市場実験のときに、余剰が最大化される≒取引人数が最小化されるであること、逆に、相対取引で取引数を増やすと余剰が減ってしまうことも数値例で示した講義への評価もあると思います(2009年からこのトピックを話しています)。また、本エントリー後半で述べるように、実証分析(positive analysis)の経済学をもって安易に現状肯定してはならないことも伝えていることを評価してくださったコメントだと思います、ありがとうございます。
2.学生との距離が近い
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| 受講生は毎年上限いっぱいの340余名。写真のとおりの大教室でも「先生との距離が近い」と 書いてくださってうれしいです。 |
心当たりがあるとすれば、たとえば「質問は? わからないところはありますか?」ではなくて、「気になったところ、こう考えたらどうなるのだろう? があったら、ぜひ教えてほしいです」という言い方をするようなところでしょうか? わからないところを大勢の前でさらけ出すようなのは尻込みしますので、「質問」という言葉は使わないほうがよいかなと思っています。
質問やコメントをいただけたら、まず大教室なのに挙手して質問してくれたことを感謝する。次に、質問に答えるのではなく、まず質問内容を繰り返して確認し、教室全体に共有する。また、質問した人の気持ちに同意する(質問そのものは専門家からすれば、すでに解答が得られているようなものも多いのですが、初習者が疑問に思う気持ちはとても大事です)。このステップを経てから、質問に回答するように心がけています。質問してくれた場合は、なるべくその人のところまでいってマイクを手渡して話してもらうようにしています。
このようなところでしょうか...?
みなさんが出してくれたレポート(右図:合計76万5000字)を読んで、響くフレーズや考えさせられるフレーズを折に触れて、講義中に紹介したりするのもよかったのかもしれません(講義中に紹介する旨はもちろん了承済み、です)。ほかにも[続く。執筆中]


























