2022年11月1日

司法試験予備試験・一般教養科目の廃止。「教養」は、人間社会に関する重要な"ドメイン知識"であろう。

司法試験予備試験の論文式試験において、選択科目が導入され、一般教養科目が廃止されました(出展。ちなみに、官報に載っているとおり、私も予備試験考査委員を2011年度から12年間も務めました。

法科大学院を卒業しなくても司法試験の受験資格を得られるのが予備試験です。その予備試験の論文式に、一般教養科目が、平成23年(2012年)度~令和3年(2021年)度まで出題されていました。1時間にわたって(概ね35行程度?)を書きます。ただ、新たに選択科目を導入するにあたって、「全体の負担の合理化の観点から、論文式試験から一般教養科目を廃止」することになったようです。

出題テーマ(書籍)を一覧してみます。いずれも公開情報を切り取っただけです。

  • 2013: 神取道宏「経済理論は何を明らかにし、どこへ向かってゆくのだろうか」
       ウェーバー『社会科学と社会政策にかかわる認識の「客観性」』
  • 2014: エリートについて
  • 2015: 猪木武徳『戦後世界経済史自由と平等の視点から』
  • 2016: インターネットの普及について
  • 2017: アリストテレス『弁論術』
  • 2018: フレイザー&ホネット『再配分か承認か?』
  • 2019: スペンサー『政府の適正領域』
  • 2020: ソポクレス『アンティゴネ』
  • 2021: 辻邦生・水村美苗『手紙、栞を添えて』

守秘義務ゆえ具体的なコメントも返答も一切しませんが、廃止された科目なので、一言だけ「うむ。経済学者とは思われないものも含め多大な貢献をしたな」と言わせてもらいたい。なかなか他の人にはできないだろう。そして、他分野の方の知見に触れることのできたこの仕事は知的にとても面白かったし、非常に勉強にもなった。

法務省の1階の絵 会議に行くたびに眺めていた。見納めの1枚。

一般教養科目は対策がむずかしいので受験勉強はしないといわれていたり、それがゆえに無駄だと批判されたりもしたようです。ただ、一般論として、こうした類の教養試験は”抽出検査”のようなものなので、そもそも対策が有効であってはならないわけです。例えば、人は女に生まれるのではない、女になるのだ」は誰の言葉ですか? といえば、ただの暗記問題ではあるものの、ジェンダーについて関心を持ち知識を蓄えていれば、どこかでボーボワールのこの言葉に出会っているはずで、正答できます。あるいは、核戦争の恐怖について勉強していれば、どこかで1962年のキューバ危機について読み聞きするはずです。すると、キューバ危機のときの米国大統領は? という暗記問題にも正答できます。たしかに暗記問題ではあるものの、いろいろな興味関心をもって幅広く見聞していれば、正答できるのがこういう教養問題なはずです。

では、専門領域とは直接関係のない見聞がどうして重要とされたのでしょうか。例えばそれは次のような極端な思考実験でうかびあがるような気もします。大地がフラットで地球は丸くないと固く信じている人がいたとして、その人がしっかり法律を勉強すれば、法曹資格をとることは可能でしょう。あるいは、南北戦争や奴隷解放について一切知らなくても、司法試験に合格することも可能でしょう。そうした人たちでも法曹業務は支障なくできるでしょう。

しかし、社会にとって重要なことについて、あるいは依頼者の一生に関わることについて、そうした人たちに決定をゆだねるのは、ちょっと”心配”ではないでしょうか(心配でないというなら、さらに極端な心配事例を考えてください)。専門知識以外の部分があやういと、専門領域においてもなにかあやうい判断をしてしまうのではないかと心配になってくるはずです。特に、新しい問題に直面したときに、依然、専門知識を応用する必要はあるのですが、その応用が心配です。その人が”地球は丸くない”と信じるにいたった認識の姿勢が、専門知識の応用の場面で悪く作用する可能性を感じ取り、心配になるのでしょう。社会常識や教養を要件にするのも無意味とはいえないように思えます。弁護士法には「(弁護士の使命)第1条 弁護士は、基本的人権を擁護し、社会正義を実現することを使命とする。」とあるわけで、専門知識だけではなく、その人生観や価値観が重要であることはいうまでもない。

教養については、教養のある知識人や研究者が多く分析し語っていると思うので、教養のない竹内がいまさらなにかを付け加えようなどとは思いません、ただの雑談です。きっと、教養の有無は、専門知識の妥当性を考えるときに重要なのでしょう。専門知識や理論とは、たいていは多くの想定や仮定のもとになりたつ理屈にすぎません。それを現実の個別具体的な事象に応用するときには、理論が前提としていた想定をどの程度まであてはめてよいものを見極める必要があります。

データサイエンスまわりの流行りの言葉でいえば、教養とは、理論を応用する際に必要な”ドメイン知識”といえるのかな(ドメイン知識自体はその領域独自の知識を指すはずなので、意味あいは逆なのですが...)。「教養」や見聞は人間社会や人の一生に関する知識といえるのではないでしょうか。"役に立つ"とは遠いという意味で教養の最たるもの=文学でいえば、定番図書として例えば、『車輪の下』やら、『ボヴァリー夫人』やら、『怒りの葡萄』やら、『椿姫』やらを読むことで、決して体験することのできない他人の人生の様々を疑似体験することでしょう。専門と直接関係がないとしても、例えば、鎌倉時代の武家政権の誕生や鎌倉幕府内の権力の推移を知っていることによって、現代社会や組織におけるパワーバランスの変化を鳥瞰することができるかもしれません。あるいは、近代合理思想や啓蒙思想がどのように世界を形作ってきたかを思えば、今日の現代社会の司法が担う歴史的重要性もわかるというものでしょう。これらのいわば雑多で一般的な背景知識を備えている人こそ、法曹にふさわしいのではないかと思います。

難しいのは、①こうした教養知識がどのように"役立った"といえるのか、②教養知識の広さや深度をどのように測るか、でしょうか。この辺は、きっと定性的・定量的な事例研究などがきっとあるだろうなと思いますが、残念ながら、寡聞にして知りません。教養には単なる衒学趣味や自己満足ではない何かがあると信じる人は、私も含め、絶滅はしていません。

地球は平面だと信じている人が裁判官でも心配にならないというのであれば、また、人の悲しみに涙したことなくてもよいというのであれば、教養知識など役にも立たないというでしょう。実際、どうなのでしょうね。(以上は、あくまでも一般論で、一個人の見解です)。

14年前でしょうか、一番初めに、法務省の担当の方が私の研究室まで来てくださったことよく覚えています。長い間、お世話になりました。 To the happy few.