2019年10月10日

公共財の過少供給としての少子化

出生数90万人割れのニュースを受けて、2014年に『金融ジャーナル』に載せていただいた記事を思い出しました。タイトルは「規制緩和は少子化対策にならない」ですが、要諦は、少子化=市場の失敗=公共財の過少供給という主張です。

 20世紀前半までは女性差別を背景に"安価に"子どもを産み育てる経済体制であったわけです。20世紀後半に女性差別をやめる経緯をたどったのだから、それに合わせ、子育て部分は公共化する必要もあったのです。しかし結局、伝統的価値観をもつ有権者の多数や政治家たちには、その発想の転換ができなかった。これが失敗の本質でしょう(あくまで、少子化が問題だという前提をとるなら、です)。

『金融ジャーナル』(2014年5月号)に載せていただいた
論考です。出生数90万人のニュースを受けて。
記事内容は以下のとおりです。
アベノミクス以前に海外機関投資家と話をすると「日本には3つの課題がある」と言われることがよくある。1つ目は20年続く株安、2つ目は強すぎる円、そして最後は少子高齢化による人口減少だ。
 はじめの課題2つは少なくとも目先では解消されたようにもみえる。より重要で深刻な3つ目の課題を考える際、これまで経済メディアが気づかなかった論点を取り上げたい。特に少子化対策として挙げられる育児支援策について考える。
 日本の将来を見据え、働く女性を増やしたい、出産後も働き続けられるように保育所を増やすべき…といった主張をよく目にするようになった。経済メディアで挙がる処方箋はほとんどすべてが「規制緩和」。保育園運営への参入規制をゆるめたり、保育士の資格をもつ職員の比率を下げたり、職員1人当たりの子どもの数を増やしたり、同じ部屋にたくさんの子どもを詰め込んだり。要するに保育園に関する規制を緩め、質の悪い保育園をつくることを許可すれば、保育ビジネスへの参入が増え、親が子どもを預けて働きやすくなる、という理屈だ。

 私はこういう主張を見るたび、保育園を利用する働く親として苛立ちを覚えます。子どもの安全や発育を軽視するいいかげんな主張であるだけでなく、このような規制緩和をすれば問題は解決するという発想が、単に経済学的に間違っているからだ。
 経済学者である私は、市場原理信奉者でもあるわけで、そんな私が規制緩和に懐疑的なのを意外に思われるかもしれない。しかし、規制緩和を主張する論者は経済学者や経済学の知識を振りかざす人たちだが、その多くは経済学の基本的理解が浅いとしか思えない。ここでキーワードになるべきは「公共財」と「外部性」だ。

 公共財とは、多くの人が広く便益を享受する財・サービスのことで、おカネを払う当事者以外の人も、そこから恩恵を受ける。外部性とは、費用を負担していない第3者にも便益がおよぶ財の性質である(これを正の外部生という)。市場経済では、公共財や正の外部性をもつ財は適切に供給されず、社会的にみて過少にしか生産されない。これは公共財の過少供給という「市場の失敗」として経済学の教科書に必ず登場する現象だ。
 したがって、政府が税金という形で強制的に費用を徴収し、政府自身が公共財を追加的に生産・供給したり、生産者に補助金を与えたりすることで、その市場の失敗を補正すべきだと考えられており、現実の政策もこうした理論を根拠にしている。
 公共財と外部性、そして過少供給というキーワードで少子化問題を考えれば、新しい視点が開けるだろう。少子化が経済社会の根本を揺るがすというのであれば、子どもも公共財といえよう。あるいは、家族だけでなく社会全体に正の外部性をもたらす財なのだ。小学校や保育園など、子どものための財政支出はなされているが、まだまだ市場原理に任されている部分が多いために、公共財としての子どもの過少供給が起きている―――これが少子化の本質だ

 これまで子どもの数を維持するための政府介入はそれほど必要ではなかった。かつては女性差別にのっとって、家事労働や育児を女性に安価で担わせていた面があったからだ。20世紀後半の女性差別撤廃は、まさに人権の回復過程であるが、経済的な観点から見れば規制緩和に他ならない。女性の職業を原則として育児や家事に限定する規制(人権の観点からみれば性差別)がなくなったのと同じことが起きたのだ。労働者を解放したのだから、その結果として当然、子育ての機会費用があがっていった。
 もし本当に日本の経済社会が子どもを必要とするなら、その子育て費用を親や家庭だけでなく社会が負担する必要がある。子ども関連に財政支援を与えることは、人権や福祉の問題ではもはやなく、市場原理や経済学の観点から見ても、当然の帰結である。
 ところが、子育て関連の財政支出はさほど伸びていない。たとえば、OECD各国の家族や子ども関連支出を見ると、日本における「子どもの過少供給」の要因がわかる。日本は未就学児への社会支出(教育・社会保障給付など)がOECD加盟国で最低水準だ。一1人あたりの支出が1位のルクセンブルグで年間11万7000ドルに対し、日本は32カ国中28位で1万9000ドルに留まる。日本よりも少ないのは、韓国、ポーランド、チリ、メキシコ。
 日本の未来を担う世代であり経済社会を支える子どもを増やしたいのならば、相応のコストを払わなくてはいけない。それは子育てにかかる費用を財政によって支えることにほかならない。財政的な裏付けもないままに、規制緩和でどうにかしようというのは甘い話だ。

「子育て」というと、ソフトな“女・子供の”話だと思うかもしれない。けれどもそれは、経済成長を決める一分野である。今の日本が抱えている大きな問題は、そのことに気づいていない、ということだ。失われた20年の最大の失敗は「子どもが公共財であることに気づかなかったこと」。手遅れになる前に、行動を起こそうではありませんか。(2014年5月)

以上です。手遅れになってしまったのでしょう...。

「これぞ大学で出会いたかった授業」早稲田政経『実験経済学』

早稲田大学の学生さんとは非常に相性がよくて、絶賛コメントをたくさんいただきました。「この先生の講義を聴けることが大きな財産」、「学問を楽しいと感じられる政治経済学部で唯一の授業」など(こちらに抜粋しています)。(追記:早稲田大学ティーチングアワード総長賞をいただけることになりました、大変光栄です。)
 あるいは「自分が普段何も考えずに生きていたか、自分の無知さを再確認することができた。もっと勉強を重ねて色んな分野の知見を広げていきたいと初めて感じさせてくれる授業だった」。
「うまい棒」で人気をとってるわけではないので、
このエントリーを書かせていただいております。
早稲田大学政治経済学部で2009年に開講された『実験経済学』を11年間にわたって非常勤講師として担当させていただき、これまで延べ3790人が受講してくれました。学生のみなさんや、関係する先生方には本当にお世話になりました。絶賛していただいたコメントには私もそれなりにうなづくものがあります。(注:シラバス自体は標準的で、「実験経済学」の内容として市場実験、利他性、公共財、リスク選好・時間選好などを紹介しています。)

 自画自賛は多分に含みつつも、早稲田の学生さんがくださった絶賛コメントを紹介しつつ、どのような取り組みが高く評価されるのか、そしてそれはなぜなのかを以下ですこしだけ紹介します。大学教育に携わるみなさまや、大学で経済学を学ぶ方にすこしでもお役に立てることを願います(自画自賛で読むに堪えないという方は、どうか読み進めないでください)。

5つの”特長”

コメントから講義を自己分析しますと、評価要因は大きく5つにあるようです。

1. 経済学の位置づけの整理
経済学の”机上の空論”というイメージを取り去ってくれた点。」「ミクロ経済学・マクロ経済学を受けるまえに受けると良い講義」「経済学がはじめて面白いと思った」「公平性・平等について重点を置いて議論がされている素晴らしい科目」

2.学生との距離が近い
「早稲田の他の大講義室でのどの授業よりも学生との距離が近い」「単位のためだけではなく内容を聞きたくて行きたくなる授業」「学生を巻き込んだゲームなどで私たちの興味を経済学に惹きつけてくれた」

3.「今までのなかで一番おもしろい」と感じられる仕掛け
「これだけユニークな授業をしてくれる先生は他にいない」「今まで講義を受けた教授の中で、最も生徒に寄り添う教授」「大学の中で最も面白い授業」「今まで受けてきた授業の中で最も学生に興味を持たせようという意識」「こんなに面白くためになる授業をしてくださる教授は他にいない」

4.人生やキャリアについて考えるきっかけ
「まさか経済の授業で、自分が人としてどうありたいか、どう生きていきたいのか、考えさせられるとは思ってもみませんでした。4年生の今、この講義を受けることができて、本当に良かったと感じています。」「先生の授業はコリ固まった僕の思考に、ひとつ光をさしてくれたような気がして、とても感謝しています。いまはこのワクワクに身を任せてみたいなと思います。」

5.「これぞ大学で出会いたかった授業」と思うテーマ性
「自学自習の精神を著しく感化する授業」「未来の世の中をよくしてくれ、というメッセージがすごい」「人間として大事なものを教えてもらった」「思考を強制するのではなくあくまでも生徒の自主性に委ねている点。その一方で先生のメッセージははっきりしていて響く人には響くと思います。」

このエントリーでは、上記の1~3までの点について書いてみます。
字数も限られていますので全方面に向けて再反論は用意していませんのでご了解ください。


1.経済学の位置づけの整理

エッセイのエントリーでも書く(予定)ように、経済学を積極的に学びたくて経済学部にすすんだ人は実は少ないのです。経済学の研究対象や手法について関心も前提知識もないところに、ミクロ経済学理論を学んでも、なかなかしっくりこない人も多いようです。私自身も大学1年のときの経済学への期待と失望とがあり、悩んでいたので、大いに共感します。
 だからこそ、①社会科学としての経済学の特徴、②顕示選好理論のエッセンス、③「経済学を専門として役に立たせる」などを話しています

 ①いろいろな社会事象のなかで何を問題とし分析対象とするのか。そして、その事象を社会科学としてどのように捉えるのか。例えば(初歩的に)、法学なら規範や制定法の観点からみるかもしれない、社会学なら歴史や文化や権力関係などだろうか、政治学なら制度かもしれない。経済学、特にミクロ経済学は「目のまえの社会事象は、なにかの最適化の結果の集合なのだ」とみなすのが特徴です。だから最適化問題を解く練習をすると話します。この前提を踏まえて、顕示選好理論や合理性(rationalizability)に話をつなげます。

 次に、効用関数など非現実的だという疑問に答える形で、②顕示選好理論のことを話しています。非現実的すぎるという点については、まず、ミクロ経済学の公理主義的アプローチ、フリードマン(1953)「実証的経済学の方法と展開(下図)」のアイディアを紹介解説します。続いて、”規約主義”や非ユークリッド幾何学なるものの発見について触れることで、公理を基盤に構築される理論体系のイメージをつかんでもらえるようです。
「仮説はその仮定の現実性によってテストされうるか」
高校までで学習する数式モデルは、数学科目でのモデルか、古典的な物理学モデルが主だと思います。前者であれば、そもそも抽象度が高く、工学応用を知らないかぎり(そして経済学部に来るような高校生が数学の工学応用を学ぶ機会はとても少ないはずです)現実との連関を気にする必要がありません。後者であれば、公理に基づくモデルというよりは、物体が放物線を描いて落下する「運動法則」や、バネと弾性力の「フックの法則」といった、現象そのものに理論の基盤を見出すことができそうなモデルです。
 ところが、ミクロ経済学は、そのどちらでもありません。抽象度は高いものの、その対象は「価格」といった極めて人為的な現実にあります。そのくせ、そのモデルの基盤となりそうな現実を探そうとしても教科書には一切でてこない。ここが混乱のもとでもあります。そこで、行動主義的アプローチ(≒顕示選好理論)を紹介しやすい実験経済学の利点が活きます。
まず、ある人の行動を、第三者である研究者が理論化モデル化するには、おそらくその人の脳内活動を直接観察するほかないだろう。それが不可能な現在は、とりあえずなにか「効用」なるものがあって、それを最大化しているかのようにその人は行動しているのだとみなす”as-if”アプローチで理論を構築する他ない。効用最大化なんて本当はしていなかったとしても、観察される行動と効用最大化理論が整合的であるかぎり"as-if"アプローチも悪くない。ただし、すこし心配になるのは、どういった行動に対してなら理論は整合的でいられるかだ。これにはすばらしい定理(Afriatの定理)があって、基本は推移性(と完備性・局所非飽和性)を満たしさえすればOKだといえる。逆に、推移性が満たされない行動に対しては"as-if"理論アプローチは基本的にお手上げである。だからこそ、教科書の最初に「推移性」が仮定されている。教科書によっては「人間はこうあるべし」だとか「推移性も満たさないような行動は分析に値しない」とも読める記述があるがミスリーディング。そもそも推移性が満たされないと標準的な理論では手も足もでないという謙虚な姿勢でもあるのだ。
映画『ウォーゲーム』(1983)の最終場面も紹介してます
といったことを話します。ただし、こうしたことを、このままストレートに話してもチンプンカンプンなので、三目並べ(Tic-Tac-Toe)で学生さんと講義中に対戦してツェルメロ定理を紹介したり、数当てゲーム(p-beauty contest game)を解説したりする場面で伝えられるよう努力しています。
 ツェルメロ定理でいえば、ゲームのルールが決まると同時に、ゲームの結果も決まっているようなもので、公理主義的アプローチも「公理→→定理」を1セットとして運用すべきである。そして、どのような公理が目の前にある現実を表しうるのか考えたり、あるいは、現実社会のどういった部分を公理として議論をスタートさせるかが”適切か”を考えたりすると伝えています。

ここで述べたように経済理論が”規約主義”でいう規約にすぎないとすれば、当然、非現実的すぎて役に立たないといった批判が待っています。そこで専門として役に立っていることも話します。

③「経済学を専門として役に立たせる」
学生さんは一般的に労働市場で評価されるスキルについては学習意欲があるようです。そうした観点から、現実的でない経済学を学んだところで「役に立たない(≒高収入を得られない)」と誤解されてしまうようです。それを否定するひとつの手段として、オークション入札戦略のナッシュ均衡の導出をしています。最初の1階条件までをアイディアで説明し、微分方程式を一歩一歩展開し、均衡戦略を導出します。
オークション入札戦略ナッシュ均衡は微分方程式を解いて得られる。
導出過程をみながら、”数学が本当に必要な希少例”として紹介している。
学部レベルの経済学では、数学をわざわざ使わなくてもグラフを描くだけで同じ結論が得られたり、数式を使っていてもその数値に何の現実性もなかったりということがよくあります。ただ、このオークション入札戦略では、期待消費者余剰の最大化の1階条件を整理していくと、どうしてもネイピア数や積分が必要となります。そして、1位価格入札、2位価格入札、All-payオークションをひとつひとつ紹介し、自分なりの入札戦略を考えてもらいます。そして、売り主はどのオークション方式を採用するのがよいのかと聞き、その後に「収入同値定理」を紹介します。多くの学生が驚く内容のはずです。
 こうした知識は、大学院レベルの教科書冒頭の数ページで解説されるもので、大学院レベル(=専門家レベル)は、この難しいモデルを出発点に様々に議論を拡張させているものなのです。そして、あるオークション研究者が受けた「400万円払うから、なにもしないで下さい」というオファーも話します。
 さらに、司法省に就職し、週休2.5日で年棒かるく1000万円を超えるジョブに就いたクラスメート(PhD)の話や、私自身が移転価格チームから年棒1000万円超のジョブオファーをいただいた話をします。また、例えば、世界銀行の採用情報(英語)をスクリーンで一緒にみて、応募資格が「最低でも経済学修士号(できれば博士号が望ましい)」とされているのを確認します。
世界銀行の採用情報のほとんどには「最低でも修士号。博士号(phD)が望ましい」とある。
経済学が就職に”役に立たない”と言ったの誰!? と思ってくれるはずです。ただ、PhDを取るわけでもない学部学生さんにはどう経済学が”役に立つ”のかは、また改めて書く機会があればと思います。
 これだけではなく、たとえば、
効率と公平がバランス良く議論されている。経済学なので効率性が一つの重要な価値基準として議論が進められているが、公平性についても注意が払われているし、差別や平等の問題についても非常に重点を置いて議論されていると思う、これはすごく大事なことだと思う。
というコメントもいただきました。これは、市場実験のときに、余剰が最大化される≒取引人数が最小化されるであること、逆に、相対取引で取引数を増やすと余剰が減ってしまうことも数値例で示した講義への評価もあると思います(2009年からこのトピックを話しています)。また、本エントリー後半で述べるように、実証分析(positive analysis)の経済学をもって安易に現状肯定してはならないことも伝えていることを評価してくださったコメントだと思います、ありがとうございます。
 
他にも、「市場」という社会制度は、経済社会に散在する情報(買い手の好みや懐事情、作り手の技術制約や原価情報などなど)を均衡価格に撚りあげていくシステムなのだという見方も説明します。

こうしたトピックや雑談によって「経済学の全体像がみえた気がする」という感想につながっていくのかなと思います。

2.学生との距離が近い

実験経済学という講義の性質上、参加型にはしやすいかと思います。参加型ゲームとしてどのような仕掛けが活きるかは別途述べさせていただくとして、「過去受けた授業の中で生徒の意欲と興味を最も高めている先生」「大学では珍しい新スタイルの教え方だと思う」というコメントからは、”距離が近い”印象を評価してくださっているのかなと思います。
受講生は毎年上限いっぱいの340余名。写真のとおりの大教室でも「先生との距離が近い」と
書いてくださってうれしいです。
特に意識してやっていることはないので、やや意外な感じがします。でも、コメントありがとうございます。
 心当たりがあるとすれば、たとえば「質問は? わからないところはありますか?」ではなくて、「気になったところ、こう考えたらどうなるのだろう? があったら、ぜひ教えてほしいです」という言い方をするようなところでしょうか? わからないところを大勢の前でさらけ出すようなのは尻込みしますので、「質問」という言葉は使わないほうがよいかなと思っています。
 質問やコメントをいただけたら、まず大教室なのに挙手して質問してくれたことを感謝する。次に、質問に答えるのではなく、まず質問内容を繰り返して確認し、教室全体に共有する。また、質問した人の気持ちに同意する(質問そのものは専門家からすれば、すでに解答が得られているようなものも多いのですが、初習者が疑問に思う気持ちはとても大事です)。このステップを経てから、質問に回答するように心がけています。質問してくれた場合は、なるべくその人のところまでいってマイクを手渡して話してもらうようにしています。
 このようなところでしょうか...?

みなさんが出してくれたレポート(右図:合計76万5000字)を読んで、響くフレーズや考えさせられるフレーズを折に触れて、講義中に紹介したりするのもよかったのかもしれません(講義中に紹介する旨はもちろん了承済み、です)。


ほかにも[続く。執筆中]