ラベル 経済学 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル 経済学 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2020年10月13日

ノーベル経済学賞はオークション理論分野に。電波オークションに複数財・組み合わせオークションを導入。

2020年ノーベル経済学賞は、スタンフォード大学のポール・ミルグロム教授とロバート・ウィルソン名誉教授が受賞しました。「オークション理論の改良と新しいオークション形式の発明を評して」が理由。

応用事例としてまっさきにあがるのが、米国FCC(連邦通信委員会)の「電波オークション」「周波数帯オークション」です。これは、携帯端末事業などに使える無線周波数帯の使用免許を競売にかけるというものです。市場規模は何千億~数兆円になると思います。

「新しいオークション形式の発明」というのは、複数の財を同時に売り出す「組み合わせオークション(複数財オークション)」に関するものでしょう。これは、入札者が複数の財を組み合わせて「パッケージ」とすることができて、そのパッケージごとに値段が異なるのが特長です。

組み合わせオークションは、複数の使用免許を同時に競売にかけるのに適しています。全米の無線周波数帯使用免許といっても、全米をカバーする使用免許がひとつだけ競売にかけられているのではありません。全米をいくつかの地域にわけ、それぞれの地域での使用免許が同時に競売に出されます。組み合わせオークションでは、個々の免許を別々に競り落とすのではなく、複数の免許のうち、いくつかを組み合わせてパッケージを作り、そのパッケージに入札することが可能になっています。

Exposure Problem(露出問題)を解決

組み合わせオークションがつかえない場合の問題は、Exposure Problemです。たとえば、テレビ地上波の電波利用権を地域ごとに競売にかけたとき、

 価値(地域A)=2000億円

 価値(地域B)=2000億円

という経済価値がある場合でも、

 価値(地域A+地域B)=8000億円

という価格付けも十分にありえます。これは、当該事業者にとっては地域間に相乗効果が見込める場合です。2地域で同時に放映できれば、それぞれの価値2000億円×2地域に加え、相乗効果分4000億円が追加されると考えてみます。

以上のような相乗効果が見込めるケースでは、1地域ごとの利用権をばらばらにオークションにかけることは望ましくありません。なぜなら、相乗効果を見込めたとしても、パッケージで入札できないかぎり、そうした相乗効果分を入札値に反映させにくいからです。この問題が、入札者が片方の財しか入手できず赤字に陥ってしまうリスクにさらされる(exposed)ので、"Exposure Problem"として知られています。例えば、競り上げオークションの途中で、

 競り値(地域A)=3000億円

 競り値(地域B)=3000億円

となった場合は、どうすればよいのでしょう。

 両方を競り落とすことができれば、両方合わせた価値8000億円に対して、支払いは6000億円なので、競り上げてもよいかもしれません。でも、もし、片方しか競り落とせなかったら、大損です。

 ですから、ABをセットで6500億円という値付けでもできないかぎり、競り上げオークションはここで止まってしまい、財の配分は非効率的で、オークション収益も最大化されません。こうしたExposure Problemの発生を避けるためには、パッケージオークション、組み合わせオークションが有効なのです。

Threshold Problem(閾値問題)

では、組み合わせさえできれば、問題は解決するのかというとそうではありません。Threshold Problem という、もうひとつの問題があります。例えば;

 事業者X 価値(地域A) =100億円

 事業者Y 価値(地域B) =100億円

 事業者Z 価値(地域AB)=130億円

という経済価値がある場合にそれが起こります。収益を最大化する配分は、事業者X・Yに、それぞれ地域Aと地域Bのライセンスを100億円で供与することです(収益131億円)


ところが、組み合わせ競り上げオークションの途中で、

 事業者X 競り値(A) = 60億円

 事業者Y 競り値(B) = 60億円

 事業者Z 競り値(AB)=125億円

となったら、何が起こるでしょうか。ここで、事業者XとYの間にタダ乗り問題が発生します。本来ならば、XとYがそれぞれ、65億円に同時に競り上げれば、事業者Zからライセンスを取り戻せます。しかし、入札参加者同士のコミュケーションは禁止されているのもあり、それは不可能です。

閾値問題。複数の小さな事業者がまとまり、大きな事業者を負かすことができれば収益は最大化されるはず。しかし、閾値を乗り越えるために「まとまって」行動することはオークションでは困難だ。

すると、XかYかのどちらかが、あと10億円上乗せしてくれれば、事業者Zに勝てるわけです。ここで、XとYはお互いにそれを期待しながら、無駄に時間が経ち、オークションは終了してしまうかもしれません。そうなると、オークション収益は129億円で、最大化されず、ライセンスの配分も経済学的に非効率的となってしまいます。

このように、組み合わせオークションをそのまま使えばよいというわけではありません。競り上げオークションには、独特のダイナミズムがあり、そのなかではオークション参加者同士の相互作用や学習が起きます。これを分析するのには、経済学で特に発展したゲーム理論が有効だったという背景があったのです。ミルグロム教授の大きな貢献のひとつがこの分野での大活躍です。

2020年2月17日

「となりの人は石鹸で手を洗っていますか?」新型コロナウイルス対策にも。手洗いを促す行動経済学とナッジ

手洗いは感染症予防の基本。行動経済学や「ナッジ(行動変容を促すちょっとした仕掛け)」を使って手洗いを促す施策と研究を紹介します。例えばメッセージでは「となりの人は石鹸をちゃんと使って手を洗っていますか?」などが有効
ここではトイレでの手洗いを促進するためのナッジ9件を紹介します。いずれも、(1)液体石鹸の使用量を測定したり、手洗いを実際に観察したりして、ナッジやポスター・メッセージの効果を推定する点、(2)ポスターなどを掲示しない「統制群(コントロールグループ)」を設けて、そのグループとの差によって、ナッジの効果を推定する点に、特長があります。

1) 床に矢印ステッカーを貼って洗面台に誘導

矢印ステッカーによる洗面台への誘導効果
 (Blackwell, et al., 2018)
Blackwell, et al. (2018) "Nudges in the restroom: How hand-washing can be impacted by environmental cues," Journal of Behavioral Economics for Policy, Vol.2, No.2, pp.41-47.(論文題名「トイレにおけるナッジ:環境の手引により手洗いはどのように影響されるか」)

 延べ19,098名のトイレ利用者の液体石鹸使用量から手洗い頻度を測定し、ナッジの効果を推定したアメリカでの実験。洗面台にスマイリー(ニコちゃん)マークのステッカーと、洗面台へ誘導する矢印のステッカーの効果を測定。床に貼られた矢印ステッカーによって、手洗い頻度が、男性は40%が46%に、女性では66%が76%に増加



2) 子どもも足跡をたどって手洗い場に行く

Dreibelbis, et al. (2016) "Behavior change without behavior change communication: Nudging handwashing among primary school students in Bangladesh," International Journal of Environmental Research and Public Health, Vol.13, pp.129-135. (論文題名「コミュニケーションを介さない行動変容:バングラデシュの小学生の手洗いへのナッジ」)
トイレを出てからポリタンクに誘導する (Dreibelbis, et al., 2016)

 バングラデシュの小学校の屋外トイレ横にポリタンク手洗い設備(HW)を設置し、トイレの出口からHWに至る経路に足跡をペンキで描き、HWに手型をペンキで描いた。子どもたちの手洗い頻度を観察した。さらに、2週間後と6週間後の手洗い頻度も合計7日間にわたって観察した。各観察回に平均して138回のトイレ利用があり、観察数は延べ962回。HW設置以前には4%に過ぎなかった手洗い頻度が、最終的には74%にまで改善した。

2019年10月10日

公共財の過少供給としての少子化

出生数90万人割れのニュースを受けて、2014年に『金融ジャーナル』に載せていただいた記事を思い出しました。タイトルは「規制緩和は少子化対策にならない」ですが、要諦は、少子化=市場の失敗=公共財の過少供給という主張です。

 20世紀前半までは女性差別を背景に"安価に"子どもを産み育てる経済体制であったわけです。20世紀後半に女性差別をやめる経緯をたどったのだから、それに合わせ、子育て部分は公共化する必要もあったのです。しかし結局、伝統的価値観をもつ有権者の多数や政治家たちには、その発想の転換ができなかった。これが失敗の本質でしょう(あくまで、少子化が問題だという前提をとるなら、です)。

『金融ジャーナル』(2014年5月号)に載せていただいた
論考です。出生数90万人のニュースを受けて。
記事内容は以下のとおりです。
アベノミクス以前に海外機関投資家と話をすると「日本には3つの課題がある」と言われることがよくある。1つ目は20年続く株安、2つ目は強すぎる円、そして最後は少子高齢化による人口減少だ。
 はじめの課題2つは少なくとも目先では解消されたようにもみえる。より重要で深刻な3つ目の課題を考える際、これまで経済メディアが気づかなかった論点を取り上げたい。特に少子化対策として挙げられる育児支援策について考える。
 日本の将来を見据え、働く女性を増やしたい、出産後も働き続けられるように保育所を増やすべき…といった主張をよく目にするようになった。経済メディアで挙がる処方箋はほとんどすべてが「規制緩和」。保育園運営への参入規制をゆるめたり、保育士の資格をもつ職員の比率を下げたり、職員1人当たりの子どもの数を増やしたり、同じ部屋にたくさんの子どもを詰め込んだり。要するに保育園に関する規制を緩め、質の悪い保育園をつくることを許可すれば、保育ビジネスへの参入が増え、親が子どもを預けて働きやすくなる、という理屈だ。

 私はこういう主張を見るたび、保育園を利用する働く親として苛立ちを覚えます。子どもの安全や発育を軽視するいいかげんな主張であるだけでなく、このような規制緩和をすれば問題は解決するという発想が、単に経済学的に間違っているからだ。
 経済学者である私は、市場原理信奉者でもあるわけで、そんな私が規制緩和に懐疑的なのを意外に思われるかもしれない。しかし、規制緩和を主張する論者は経済学者や経済学の知識を振りかざす人たちだが、その多くは経済学の基本的理解が浅いとしか思えない。ここでキーワードになるべきは「公共財」と「外部性」だ。

 公共財とは、多くの人が広く便益を享受する財・サービスのことで、おカネを払う当事者以外の人も、そこから恩恵を受ける。外部性とは、費用を負担していない第3者にも便益がおよぶ財の性質である(これを正の外部生という)。市場経済では、公共財や正の外部性をもつ財は適切に供給されず、社会的にみて過少にしか生産されない。これは公共財の過少供給という「市場の失敗」として経済学の教科書に必ず登場する現象だ。
 したがって、政府が税金という形で強制的に費用を徴収し、政府自身が公共財を追加的に生産・供給したり、生産者に補助金を与えたりすることで、その市場の失敗を補正すべきだと考えられており、現実の政策もこうした理論を根拠にしている。
 公共財と外部性、そして過少供給というキーワードで少子化問題を考えれば、新しい視点が開けるだろう。少子化が経済社会の根本を揺るがすというのであれば、子どもも公共財といえよう。あるいは、家族だけでなく社会全体に正の外部性をもたらす財なのだ。小学校や保育園など、子どものための財政支出はなされているが、まだまだ市場原理に任されている部分が多いために、公共財としての子どもの過少供給が起きている―――これが少子化の本質だ

 これまで子どもの数を維持するための政府介入はそれほど必要ではなかった。かつては女性差別にのっとって、家事労働や育児を女性に安価で担わせていた面があったからだ。20世紀後半の女性差別撤廃は、まさに人権の回復過程であるが、経済的な観点から見れば規制緩和に他ならない。女性の職業を原則として育児や家事に限定する規制(人権の観点からみれば性差別)がなくなったのと同じことが起きたのだ。労働者を解放したのだから、その結果として当然、子育ての機会費用があがっていった。
 もし本当に日本の経済社会が子どもを必要とするなら、その子育て費用を親や家庭だけでなく社会が負担する必要がある。子ども関連に財政支援を与えることは、人権や福祉の問題ではもはやなく、市場原理や経済学の観点から見ても、当然の帰結である。
 ところが、子育て関連の財政支出はさほど伸びていない。たとえば、OECD各国の家族や子ども関連支出を見ると、日本における「子どもの過少供給」の要因がわかる。日本は未就学児への社会支出(教育・社会保障給付など)がOECD加盟国で最低水準だ。一1人あたりの支出が1位のルクセンブルグで年間11万7000ドルに対し、日本は32カ国中28位で1万9000ドルに留まる。日本よりも少ないのは、韓国、ポーランド、チリ、メキシコ。
 日本の未来を担う世代であり経済社会を支える子どもを増やしたいのならば、相応のコストを払わなくてはいけない。それは子育てにかかる費用を財政によって支えることにほかならない。財政的な裏付けもないままに、規制緩和でどうにかしようというのは甘い話だ。

「子育て」というと、ソフトな“女・子供の”話だと思うかもしれない。けれどもそれは、経済成長を決める一分野である。今の日本が抱えている大きな問題は、そのことに気づいていない、ということだ。失われた20年の最大の失敗は「子どもが公共財であることに気づかなかったこと」。手遅れになる前に、行動を起こそうではありませんか。(2014年5月)

以上です。手遅れになってしまったのでしょう...。

「これぞ大学で出会いたかった授業」早稲田政経『実験経済学』

早稲田大学の学生さんとは非常に相性がよくて、絶賛コメントをたくさんいただきました。「この先生の講義を聴けることが大きな財産」、「学問を楽しいと感じられる政治経済学部で唯一の授業」など(こちらに抜粋しています)。(追記:早稲田大学ティーチングアワード総長賞をいただけることになりました、大変光栄です。)
 あるいは「自分が普段何も考えずに生きていたか、自分の無知さを再確認することができた。もっと勉強を重ねて色んな分野の知見を広げていきたいと初めて感じさせてくれる授業だった」。
「うまい棒」で人気をとってるわけではないので、
このエントリーを書かせていただいております。
早稲田大学政治経済学部で2009年に開講された『実験経済学』を11年間にわたって非常勤講師として担当させていただき、これまで延べ3790人が受講してくれました。学生のみなさんや、関係する先生方には本当にお世話になりました。絶賛していただいたコメントには私もそれなりにうなづくものがあります。(注:シラバス自体は標準的で、「実験経済学」の内容として市場実験、利他性、公共財、リスク選好・時間選好などを紹介しています。)

 自画自賛は多分に含みつつも、早稲田の学生さんがくださった絶賛コメントを紹介しつつ、どのような取り組みが高く評価されるのか、そしてそれはなぜなのかを以下ですこしだけ紹介します。大学教育に携わるみなさまや、大学で経済学を学ぶ方にすこしでもお役に立てることを願います(自画自賛で読むに堪えないという方は、どうか読み進めないでください)。

5つの”特長”

コメントから講義を自己分析しますと、評価要因は大きく5つにあるようです。

1. 経済学の位置づけの整理
経済学の”机上の空論”というイメージを取り去ってくれた点。」「ミクロ経済学・マクロ経済学を受けるまえに受けると良い講義」「経済学がはじめて面白いと思った」「公平性・平等について重点を置いて議論がされている素晴らしい科目」

2.学生との距離が近い
「早稲田の他の大講義室でのどの授業よりも学生との距離が近い」「単位のためだけではなく内容を聞きたくて行きたくなる授業」「学生を巻き込んだゲームなどで私たちの興味を経済学に惹きつけてくれた」

3.「今までのなかで一番おもしろい」と感じられる仕掛け
「これだけユニークな授業をしてくれる先生は他にいない」「今まで講義を受けた教授の中で、最も生徒に寄り添う教授」「大学の中で最も面白い授業」「今まで受けてきた授業の中で最も学生に興味を持たせようという意識」「こんなに面白くためになる授業をしてくださる教授は他にいない」

4.人生やキャリアについて考えるきっかけ
「まさか経済の授業で、自分が人としてどうありたいか、どう生きていきたいのか、考えさせられるとは思ってもみませんでした。4年生の今、この講義を受けることができて、本当に良かったと感じています。」「先生の授業はコリ固まった僕の思考に、ひとつ光をさしてくれたような気がして、とても感謝しています。いまはこのワクワクに身を任せてみたいなと思います。」

5.「これぞ大学で出会いたかった授業」と思うテーマ性
「自学自習の精神を著しく感化する授業」「未来の世の中をよくしてくれ、というメッセージがすごい」「人間として大事なものを教えてもらった」「思考を強制するのではなくあくまでも生徒の自主性に委ねている点。その一方で先生のメッセージははっきりしていて響く人には響くと思います。」

このエントリーでは、上記の1~3までの点について書いてみます。
字数も限られていますので全方面に向けて再反論は用意していませんのでご了解ください。


1.経済学の位置づけの整理

エッセイのエントリーでも書く(予定)ように、経済学を積極的に学びたくて経済学部にすすんだ人は実は少ないのです。経済学の研究対象や手法について関心も前提知識もないところに、ミクロ経済学理論を学んでも、なかなかしっくりこない人も多いようです。私自身も大学1年のときの経済学への期待と失望とがあり、悩んでいたので、大いに共感します。
 だからこそ、①社会科学としての経済学の特徴、②顕示選好理論のエッセンス、③「経済学を専門として役に立たせる」などを話しています

 ①いろいろな社会事象のなかで何を問題とし分析対象とするのか。そして、その事象を社会科学としてどのように捉えるのか。例えば(初歩的に)、法学なら規範や制定法の観点からみるかもしれない、社会学なら歴史や文化や権力関係などだろうか、政治学なら制度かもしれない。経済学、特にミクロ経済学は「目のまえの社会事象は、なにかの最適化の結果の集合なのだ」とみなすのが特徴です。だから最適化問題を解く練習をすると話します。この前提を踏まえて、顕示選好理論や合理性(rationalizability)に話をつなげます。

 次に、効用関数など非現実的だという疑問に答える形で、②顕示選好理論のことを話しています。非現実的すぎるという点については、まず、ミクロ経済学の公理主義的アプローチ、フリードマン(1953)「実証的経済学の方法と展開(下図)」のアイディアを紹介解説します。続いて、”規約主義”や非ユークリッド幾何学なるものの発見について触れることで、公理を基盤に構築される理論体系のイメージをつかんでもらえるようです。
「仮説はその仮定の現実性によってテストされうるか」
高校までで学習する数式モデルは、数学科目でのモデルか、古典的な物理学モデルが主だと思います。前者であれば、そもそも抽象度が高く、工学応用を知らないかぎり(そして経済学部に来るような高校生が数学の工学応用を学ぶ機会はとても少ないはずです)現実との連関を気にする必要がありません。後者であれば、公理に基づくモデルというよりは、物体が放物線を描いて落下する「運動法則」や、バネと弾性力の「フックの法則」といった、現象そのものに理論の基盤を見出すことができそうなモデルです。
 ところが、ミクロ経済学は、そのどちらでもありません。抽象度は高いものの、その対象は「価格」といった極めて人為的な現実にあります。そのくせ、そのモデルの基盤となりそうな現実を探そうとしても教科書には一切でてこない。ここが混乱のもとでもあります。そこで、行動主義的アプローチ(≒顕示選好理論)を紹介しやすい実験経済学の利点が活きます。
まず、ある人の行動を、第三者である研究者が理論化モデル化するには、おそらくその人の脳内活動を直接観察するほかないだろう。それが不可能な現在は、とりあえずなにか「効用」なるものがあって、それを最大化しているかのようにその人は行動しているのだとみなす”as-if”アプローチで理論を構築する他ない。効用最大化なんて本当はしていなかったとしても、観察される行動と効用最大化理論が整合的であるかぎり"as-if"アプローチも悪くない。ただし、すこし心配になるのは、どういった行動に対してなら理論は整合的でいられるかだ。これにはすばらしい定理(Afriatの定理)があって、基本は推移性(と完備性・局所非飽和性)を満たしさえすればOKだといえる。逆に、推移性が満たされない行動に対しては"as-if"理論アプローチは基本的にお手上げである。だからこそ、教科書の最初に「推移性」が仮定されている。教科書によっては「人間はこうあるべし」だとか「推移性も満たさないような行動は分析に値しない」とも読める記述があるがミスリーディング。そもそも推移性が満たされないと標準的な理論では手も足もでないという謙虚な姿勢でもあるのだ。
映画『ウォーゲーム』(1983)の最終場面も紹介してます
といったことを話します。ただし、こうしたことを、このままストレートに話してもチンプンカンプンなので、三目並べ(Tic-Tac-Toe)で学生さんと講義中に対戦してツェルメロ定理を紹介したり、数当てゲーム(p-beauty contest game)を解説したりする場面で伝えられるよう努力しています。
 ツェルメロ定理でいえば、ゲームのルールが決まると同時に、ゲームの結果も決まっているようなもので、公理主義的アプローチも「公理→→定理」を1セットとして運用すべきである。そして、どのような公理が目の前にある現実を表しうるのか考えたり、あるいは、現実社会のどういった部分を公理として議論をスタートさせるかが”適切か”を考えたりすると伝えています。

ここで述べたように経済理論が”規約主義”でいう規約にすぎないとすれば、当然、非現実的すぎて役に立たないといった批判が待っています。そこで専門として役に立っていることも話します。

③「経済学を専門として役に立たせる」
学生さんは一般的に労働市場で評価されるスキルについては学習意欲があるようです。そうした観点から、現実的でない経済学を学んだところで「役に立たない(≒高収入を得られない)」と誤解されてしまうようです。それを否定するひとつの手段として、オークション入札戦略のナッシュ均衡の導出をしています。最初の1階条件までをアイディアで説明し、微分方程式を一歩一歩展開し、均衡戦略を導出します。
オークション入札戦略ナッシュ均衡は微分方程式を解いて得られる。
導出過程をみながら、”数学が本当に必要な希少例”として紹介している。
学部レベルの経済学では、数学をわざわざ使わなくてもグラフを描くだけで同じ結論が得られたり、数式を使っていてもその数値に何の現実性もなかったりということがよくあります。ただ、このオークション入札戦略では、期待消費者余剰の最大化の1階条件を整理していくと、どうしてもネイピア数や積分が必要となります。そして、1位価格入札、2位価格入札、All-payオークションをひとつひとつ紹介し、自分なりの入札戦略を考えてもらいます。そして、売り主はどのオークション方式を採用するのがよいのかと聞き、その後に「収入同値定理」を紹介します。多くの学生が驚く内容のはずです。
 こうした知識は、大学院レベルの教科書冒頭の数ページで解説されるもので、大学院レベル(=専門家レベル)は、この難しいモデルを出発点に様々に議論を拡張させているものなのです。そして、あるオークション研究者が受けた「400万円払うから、なにもしないで下さい」というオファーも話します。
 さらに、司法省に就職し、週休2.5日で年棒かるく1000万円を超えるジョブに就いたクラスメート(PhD)の話や、私自身が移転価格チームから年棒1000万円超のジョブオファーをいただいた話をします。また、例えば、世界銀行の採用情報(英語)をスクリーンで一緒にみて、応募資格が「最低でも経済学修士号(できれば博士号が望ましい)」とされているのを確認します。
世界銀行の採用情報のほとんどには「最低でも修士号。博士号(phD)が望ましい」とある。
経済学が就職に”役に立たない”と言ったの誰!? と思ってくれるはずです。ただ、PhDを取るわけでもない学部学生さんにはどう経済学が”役に立つ”のかは、また改めて書く機会があればと思います。
 これだけではなく、たとえば、
効率と公平がバランス良く議論されている。経済学なので効率性が一つの重要な価値基準として議論が進められているが、公平性についても注意が払われているし、差別や平等の問題についても非常に重点を置いて議論されていると思う、これはすごく大事なことだと思う。
というコメントもいただきました。これは、市場実験のときに、余剰が最大化される≒取引人数が最小化されるであること、逆に、相対取引で取引数を増やすと余剰が減ってしまうことも数値例で示した講義への評価もあると思います(2009年からこのトピックを話しています)。また、本エントリー後半で述べるように、実証分析(positive analysis)の経済学をもって安易に現状肯定してはならないことも伝えていることを評価してくださったコメントだと思います、ありがとうございます。
 
他にも、「市場」という社会制度は、経済社会に散在する情報(買い手の好みや懐事情、作り手の技術制約や原価情報などなど)を均衡価格に撚りあげていくシステムなのだという見方も説明します。

こうしたトピックや雑談によって「経済学の全体像がみえた気がする」という感想につながっていくのかなと思います。

2.学生との距離が近い

実験経済学という講義の性質上、参加型にはしやすいかと思います。参加型ゲームとしてどのような仕掛けが活きるかは別途述べさせていただくとして、「過去受けた授業の中で生徒の意欲と興味を最も高めている先生」「大学では珍しい新スタイルの教え方だと思う」というコメントからは、”距離が近い”印象を評価してくださっているのかなと思います。
受講生は毎年上限いっぱいの340余名。写真のとおりの大教室でも「先生との距離が近い」と
書いてくださってうれしいです。
特に意識してやっていることはないので、やや意外な感じがします。でも、コメントありがとうございます。
 心当たりがあるとすれば、たとえば「質問は? わからないところはありますか?」ではなくて、「気になったところ、こう考えたらどうなるのだろう? があったら、ぜひ教えてほしいです」という言い方をするようなところでしょうか? わからないところを大勢の前でさらけ出すようなのは尻込みしますので、「質問」という言葉は使わないほうがよいかなと思っています。
 質問やコメントをいただけたら、まず大教室なのに挙手して質問してくれたことを感謝する。次に、質問に答えるのではなく、まず質問内容を繰り返して確認し、教室全体に共有する。また、質問した人の気持ちに同意する(質問そのものは専門家からすれば、すでに解答が得られているようなものも多いのですが、初習者が疑問に思う気持ちはとても大事です)。このステップを経てから、質問に回答するように心がけています。質問してくれた場合は、なるべくその人のところまでいってマイクを手渡して話してもらうようにしています。
 このようなところでしょうか...?

みなさんが出してくれたレポート(右図:合計76万5000字)を読んで、響くフレーズや考えさせられるフレーズを折に触れて、講義中に紹介したりするのもよかったのかもしれません(講義中に紹介する旨はもちろん了承済み、です)。


ほかにも[続く。執筆中]

2019年6月12日

行動経済学「ナッジ」は政策を変えるのか?

2019年5月21日、経済産業省(METI)はナッジユニットを設置すると発表した。イギリスやアメリカ等ではすでに先行事例があるナッジの政策応用について、その費用対効果を検証した論文があるので、そのひとつを紹介したい。
「経済産業省は、政策の施策効果の向上を図るため、行動経済学の知見に基づく新たな政策手法である「ナッジ」の活用に向けて、省内に新たなプロジェクトチーム「METIナッジユニット」を設置します。今後、METIナッジユニットが中心となり、専門家の協力を得ながら、エネルギーや中小企業施策などの分野で具体的なナッジプロジェクトを組成・推進します。」出典:同上

ナッジが政策に

「ナッジ(nudge)」は、肘で軽くつついて人を動かすこと。家計や企業といった経済主体の行動を政策目標に沿うように誘導するために、これまでは税や補助金が使われてきた。例えば、太陽光発電を促したい、あるいは住宅の耐震化をすすめたいのであれば、それにそった補助金制度が整備される。しかし、税制優遇や補助金だけではどうやら不十分であることが理解されてきた。なぜなら、補助金などを考慮すれば合理的には正しいはずの行動でも、意思決定に直面する人の多くに行動経済学的なバイアスがあるせいで、正しい行動をうまくとることができないからだ
これを受け、各国政府のなかで通称ナッジユニットとよばれる政策の企画立案部署が設置された。イギリスでは2010年に内閣にナッジユニットが設立され、アメリカでもオバマ大統領が2015年に行動科学を政策に応用するためのSocial and Behavioral Sciences Teamを設置した。世界銀行のなかにも行動科学の専門家チームeMBeDがある。実際のところ、どの程度の効果があるのか。またナッジを効かすにあたっての注意事項等を以下で整理しよう。

ナッジの費用対効果

Psychological Science 誌に「Should Governments Invest More in Nudging?(政府はナッジにもっと投資すべきか?)」という論文が公刊された。この論文の著者には、『実践 行動経済学(原題:Nudge)』を記したサンスティーン教授とセイラー教授も含まれる。
論文は、4つの分野(退職金積立促進、大学進学支援、省エネ促進、インフルエンザ予防接種促進)において、ナッジ手法による効果と、補助金などの伝統的な政策による効果を比較している。比較対象となる伝統的な政策については、各分野でのトップ3の学術誌に2000年~2015年までに掲載された研究結果の数値が用いられた。

退職金積立促進

まず退職金積立促進におけるナッジは単純で、従業員に就職後1ヶ月以内に積立率を選んでもらうだけだ。このナッジのおかげで、従業員給与の1%相当が新たに退職金積立に振り向けられたという。その費用対効果は低めに見積もっても、コスト$1当たりで、積立金の増加額年間$100に相当した。伝統的な税制優遇や補助金などよりもずっとインパクトは大きい。

就職直後に退職金積立の申込をしてもらう「ナッジ」だけの効果は、
補助金や税制優遇などよりもずっと効果が大きい

大学進学支援

大学進学支援についてもナッジの効果は大きい。低所得世帯の高校生をターゲットに大学進学を促すような補助金や奨学金などはあるが、それが果たす役割(大学進学を増やす効果)はナッジに比べれば限定的だ。ここでのナッジは、連邦学資援助無料申込(FAFSA)の入力支援と援助額の見積サービスだ。このサービスを受けたグループでは、そうでない統制グループと比べて、進学率が8.1%ポイント上昇したという。支援見積サービスの単価が1件当たり$53.02かかったので、政策コスト$1,000当たりになおすと政策効果は1.53人分の大学進学人数に相当する。これは他の伝統的な政策(その多くは金銭的な援助を提供する)に比べても大きい。
連邦学資援助無料申込(FAFSA)の入力支援と援助額の見積サービスを受けるだけで大学進学率が上昇する。他の金銭的な援助をする政策よりも効果ははるかに大きい。
連邦学資援助無料申込(FAFSA)の入力支援と援助額の見積サービスを受けるだけで大学進学率が上昇する。
他の金銭的な援助をする政策よりも効果ははるかに大きい。

省エネ促進

省エネについても、電気料金が割引になるといった金銭的動機ではなく、省エネが環境に良いことだという社会規範に訴えるナッジのほうが効果が大きい。
金銭的な見返りよりも、社会的意義を理解するほうが人は行動を変えやすいこともある。
料金割引につられて省エネをしているわけではない。

2013年7月10日

『日本最悪のシナリオ~9つの死角』「人口衰弱」

2013年7月10日に六本木アカデミーヒルズで行われたパネル討論会における私の発言録です。

 “日本最悪のシナリオ”に学ぶ「危機管理」と「リーダーシップ」
~いかに“最悪”を回避するのか?~
https://www.academyhills.com/note/opinion/14021705saiakunoscenario.html
こちらのウェブサイトにある写真を転載しています。

第3次ベビーブームはおきず、日本の人口は逆ピラミッドへ

私は『日本最悪のシナリオ~9つの死角』で、「人口衰弱」のシナリオ原案を担当しました。人口衰弱は、時間をかけて満ちる潮のように、ゆっくりと迫ってくるタイプの危機です。しかし、その危機が近いうちに訪れることは、もはや誰の目にも明らかです。

「人口ピラミッド」という有名なグラフがあります。昭和期、若い世代のグラフは長く、年齢が高くなるほど短くなり、きれいなピラミッドの形をなしていました。現在はむしろ、逆ピラミッドに近づきつつあります。2050年の人口予測では、全体の4割が65歳以上の高齢者となり、20歳以下の人口は1割ほどになると予測されています。

人口衰弱がもたらす危機の最たるものは、高齢者3経費(年金・医療・介護)です。すでに社会問題となっており、様々な推計も出されています。現在は高齢者1人につき、3~4人の勤労世代で支えていますが、将来は高齢者1人を1.5人の勤労世代で支えなければならなくなります。特に、医療費は将来、GDP比10~15%となり、消費税は20%になるとも言われています。他方で、政府の借金はいまや1,000兆円にも達する勢いです。少子化の進展により税収は先細りとなり、このままではいずれ政府そのものが破綻すると考えられています。

では、子どもはなぜ少なくなったのでしょうか。日本では戦後すぐ、第1次ベビーブームが起こり、団塊の世代が生まれました。次に団塊ジュニア、第2次ベビーブーム世代が日本の人口を支えました。本来は、第3次ベビーブームが起こるはずでした。しかし、団塊ジュニアが40歳を超えてしまい、もはやその可能性は失われてしまったのです。


なぜ、ベビーブームは起こらなかったのか。その理由を物語るデータがあります。厚生労働省がまとめた、1975~2000年までの社会保障給付費の変遷を表すグラフです。この25年間で、高齢者向けの社会保障費は増加の一途をたどっています。一方で、児童・家庭関係給付費はほとんど増加していません。つまり、子どもが減少してきたにもかかわらず、20年以上にわたり手立てが講じられてこなかった。そのツケが、出生率の低下につながっているのです。

もう1つの理由は、結婚・出産に関する考え方の変化です。結婚はかつて、経済力のある男性が経済力のない女性を養う、あるいは、男性は仕事、女性は家事・育児・介護を担当するという不文律がありました。しかし、日本が1985年に女子差別撤廃条約に批准して以降、女性の社会進出が進むにしたがい、従来の性的、分業的な結婚観は大きく変わりました。

また、十数年前までは、結婚して家庭を持たない男性は一人前として認められない、つまり社会的信用が得られませんでした。そして結婚すれば、周囲から「子どもは?」という声がかかります。こうしたことから、人々の頭の中には「結婚から出産」という既定路線ができあがっていました。しかし、近年は結婚に対する価値観が変わり、その路線は失われつつあるのです。

竹内幹: 実は、人口が減ると分かったのは1974年のことです。この年、合計特殊出生率(※編注)は人口を一定に保つために必要な水準(2.1)を初めて下回りました。しかし、その後15年間、人口減少への有効な手は打たれませんでした。1990年、前年の合計特殊出生率が史上最低となった「1.57ショック」が起こり、初めて少子化が社会問題として取り上げられました。ところが、ここでも政府は対応しませんでした。そして2005年、日本の人口は減少に転じてしまったのです。

対応しなかった1つの理由は、社会を動かしてきた男性中心の権威主義が、女性や子どもの問題を軽視してきたからです。男女雇用機会均等法成立の中核を担った赤松良子氏(当時、労働省婦人局長)は、1983年に当時の経団連会長と面会し、女子差別撤廃条約への批准と、男女雇用機会均等法成立への協力を求めたそうです。すると、当時の会長は「(婦人に)参政権なんて持たせるから、歯止めがなくなってしまっていけませんなあ」と答えたそうです。

女性の参政権が認められたのは1945年。その後40年経っても、こうした発言をする人が経済界のトップに立っていたのです。日経連も当時、「男女雇用機会均等法ができると、企業経営が成り立たなくなる」と声明を出そうとしていましたが、赤松氏が説得し、未然に防いだという経緯が彼女の著書に記されています。経済界がいま、手のひらを返したように女性活用を訴えはじめていることは、私の目にはとても滑稽に映ります。

「環境問題」を思い出してみてください。30年前、「そんなことをしていたら企業経営は成り立たない」と言われていたはずです。30年経ち、社会の意識はガラリと変わりました。現在は「育児休業なんかで休まれたら、仕事にならない」と言われていますが、おそらく30年後、人口衰弱による危機に直面した日本では、人々の意識も変わっていることでしょう。

「企業の社会貢献だ、CSRだ」と言って木を植えるよりも先に、まずはお父さんお母さんを子どものもとに帰しなさい。私はいま、真面目にそう言いたいと思います。国家とは元をたどれば、1つひとつの家庭に行き着きます。経済学の言葉を当てはめれば、子どもは公共財です。子どもは社会全体に便益をもたらす1つの財産であり、本来は社会全体で支え、育てていくものです。同じく公共財である道路に関しては、現在も多額の税金が投じられています。しかし、子どもに関しては、いまだに手がつけられていません。

政治や経済を担う男性の間に「出産や育児など、小さい問題だ。俺たちは国や経済といった大きな問題と戦っているのだ」という意識がいまだ蔓延している時点で、すでに危機の状況が正確に把握できていないのです。

「世代間格差」という言葉があります。これは、生涯で負担する税金と、生涯で享受できる社会保障サービスの差が、世代ごとに異なることを指します。内閣府の『年次経済財政報告』(平成17年)によれば、現在の60代は約1,600万円の純利益を得ている一方で、現在の30代は約1,700万円の損失を被るそうです。さらに、これから生まれる世代は、生まれた瞬間から約5,000万円もの借金を背負わされてしまうのです。団塊以上の世代が「逃げ切り世代」「持ち逃げ世代」と言われる所以です。

現在の高齢者の医療費自己負担は1割ですが、本来、2割への引き上げは2008年から行われる予定でした。しかし、政府は毎年2,000億円もの赤字を出しながら、懸命に1割負担を維持しています。その一方で、財政破綻が近づけば、若者の失業率が高くなります。近年、財政破綻に直面する国では、若者の失業率は5割を超えています。

財務省は、消費税を現在の水準から5%上げれば、税収が13.5兆円増えると試算しています。消費税は基本的に高齢者3経費(年金・医療・介護)に当てられるのですが、今回の増税で財務省は「未来(子ども)への投資」と銘打って、子育て支援にも使うとしています。しかし13.5兆円のうち、子育て支援に充てられるのは、わずかに0.7兆円。とても本気とは思えない金額です。

今後、国の取り組みが変化するのかと言えば、可能性は低いでしょう。選挙で投票した年代別の割合を示す円グラフがあります。グラフでは50代以上が全体の6割超を占め、60代以上でも半数に迫っています。20代は全体の1割弱です。若者の投票率が低いと言われて久しいですが、実はいま、若者が全員投票したとしても、数字上では高齢者世代に勝てない。それが少子高齢化の現実です。投票者の年齢構成は、政策の方向性に大きな影響を与えます。現在の政治のシステムが変わらない限り、高齢者優遇の流れも変わらないのです。

こうした流れが行き着く先に、何があるのか。不満を募らせ、行き場を失った若者たちは、街に繰り出し、国のあり方を力尽くでも変えようと過激な行動、クーデターを起こす。それが最悪のシナリオの一例です。

暗い話ばかりが続きましたが、危機への対応策はあります。たとえば、年金のカットです。バラマキと批判された「子ども手当」は、年間2~4兆円ほど。しかし、年金のバラマキは年間約50兆円。高齢者の方々は「若い頃から積み立てたお金を受け取っているだけだ」と言いますが、彼らは自分たちが支払った額よりもずっと多い金額を受け取っています。年金こそ、盛大なバラマキなのです。年金を現在の半分ほどにカットすれば、年間約25兆円の支出が抑えられます。消費税10%分と同程度の額を生み出せるわけです。

もう1つの対応策として考えられるのが、子どもを増やしていくこと。少子化対策として頻繁に取り上げられるのが、女性活用とワーク・ライフ・バランス(仕事と育児の両立)です。しかし、世界の流れからすれば、すでに周回遅れのイメージがあります。

そもそも、企業内に女性役員がいない時点で、1周遅れています。女性の役員・社員がいるとしても、その旦那さんはおそらくフルタイム勤務でしょう。夫婦がフルタイムで働いている間、子どもはどこにいるのでしょう。育児とは、保育施設で行うものではありません。そして、育児の責任は男女平等です。女性支援(=育児支援)を打ち出すのならば、父親支援も並行して行うべきなのです。

以上です。 パネル討論などはアカデミーヒルズ様のウェブサイトでご覧いただけます。

2013年7月9日

2050年 若者がテロリストになる日(シナリオ原案:少子高齢化の最悪の想定)

財団法人日本再建イニシアティブ『日本最悪のシナリオ 9つの死角』新潮社、2013年。のなかの「人口衰弱」の原案を担当しました。シナリオ原案をここにすこし紹介いたします。

(決して起きてはならないという意味で「最悪の最悪」を想定するミッションでのフィクションです。また各数値・試算や議論については、必ずしも学術的な裏付けが十分でなくとも、フィクションとして使っておりますことご了承ください)

2010年代、第2次ベビーブーマーが40歳を迎え出産可能年齢を越えた。だが、第3次ベビーブームは到来しなかった、少子化対策は失敗したのだった。そして、このまま少子高齢化がすすみ、2050年には総人口の4割が高齢者になる。医療や介護などの社会保障費は現役世代に重くのしかかり、多額の年金給付をまかなうために社会保険料は上がり続けた。高齢者世代のための年金・医療・介護制度といった“大盤振舞”は、その財源もないまま膨張し続け、若者世代には1人当たり5000万円を超える大きな借金が残された。重税に苦しむ若者世代と、その税で老後を暮らす高齢者世代との間には、大きな世代間格差がうまれた。2000年代にすでに指摘されていたこの格差問題は、1970年代生まれの第2次ベビーブーマーが後期高齢者となる2050年にそのピークを迎える。

しかし、高齢者が圧倒的多数を占めるそのとき、1人1票を原則とした選挙制度はそうした高齢者向け社会保障の膨張とその負担を若者世代におしつける政治に歯止めをかけることはできなかった。そして、絶望した若者たちの一部に狂信的思想がひろまる。最悪のシナリオでは、世代間格差を解消できない政治への絶望と怒りがつのる2050年には、世代間平等をとなえる革命思想が若者の心をとらえることになる。


高齢化と経済の衰退
「時代は変わった」。経済学者の後藤四郎はつぶやいた。来春、麻布高校を卒業する後藤の次男の六郎が、海外の大学に進学すると言い出したのである。最近では都内の進学校出身の高校生が欧米や中国の大学に進むことは、さほど珍しくなくなった。ところが六郎が進学を希望するのはアフリカのチュニジアにある北アフリカ総合大学だという。カルタゴの遺跡くらいの知識しかなかった後藤に対し、六郎はこう言った。「お父さんはどうせ、アフリカの大学で何を学べる?とか思っているんでしょう。言っとくけどチュニジアはアフリカで一番平和な国だし、日本と違って経済成長してる。人口が増えているし、何より若者が多いんだよ」。
 若者が多い、と言われて後藤は黙るしかなかった。日本の総人口は2050年現在、9187万人[1]。高齢化が進み、65歳以上の高齢者は約3800万人、総人口の4割を超える。20歳から65歳までの現役世代は4393万人で半分に満たないし、六郎たちのような20歳未満の若者は全体の1割だけだ。「僕は日本でマイノリティーとして生きていくのはいやなんだ」。父親に反抗しているというより、単なる事実という感じで六郎はそう言った。


 実際、今の日本で若者は少数派だ。街を歩いていると高齢者ばかりが目につく。通勤時間帯に赤坂見附から地下鉄銀座線に乗っても、座れるという事実に、四郎は先日驚いたばかりだ。一方、お昼前後に都バスに乗ると、シルバーパスをかざして無料で乗ってくる高齢者が列をなしている。これでは財政が破綻するのも当然だ、と四郎は考えている。
 マクロ経済学を専攻する後藤は東京大学で教鞭をとる。少子化による18歳人口減少の影響は、東大にも及んでいる。留学生を呼び込むため英語で受けられる講義が大半を占め、後藤自身も北京・上海・バンコク・ジャカルタなどアジアの主要都市を回る大学説明会に毎年1カ月程度を費やす。私立大学に至っては、教員の7割強を入れ替え、英語による講義やインターネットによる講義配信を行っている。
ただ、10年ほど前から、東大ではなく中国沿岸部の有名大学を留学先に選ぶ学生も増えてきた。というのも、人口の減少や社会保障の負担の増加により、日本の経済的地位は低下しつづけているからだ。21世紀に入ってGDP世界第2位の座を中国に譲ってから、日本の存在感はうすれるばかり。GDP2030年にはついにインドに抜かれ、この50年代にはブラジルに追いつかれるといわれている。
 その日の午後2時、四郎は霞ヶ関にいた。委員を務める経済財政諮問会議に出席するためだ。議題は消費税率引き上げについて。現在、消費税率は20%だが[2]、社会保障や年金給付への国庫負担などがかさみ、政府の借金は4000兆円に達している[3]
財務省は「プライマリーバランスを取るためには、3年以内にさらに5%の消費税率引き上げが必要」と試算しているが、ここ60年、プライマリーバランスが達成された試しはない。
 2010年代から消費税は徐々に引き上げられてきたが、逆進性が問題視されたこと、年金生活者からのロビイングがあり「消費税減免シルバーパス」が発行されることになった。65歳以上の日本国民が店頭でモノやサービスを購入した際、このパスを見せると、消費税を払わなくても良いのである。所得税、消費税、社会保険料、介護保険料など、この頃には負担は全て勤労世代に押し付けられるようになっていた。

2050年1月、首相官邸に怪文書が届く
それは、年金制度と介護保険制度の廃止、それらに充てられている約130兆円の予算を35歳以下の雇用対策と子育て支援に充てることを求める内容の怪文書だった。1週間以内に関連の法改正を行わない場合は「現代版アンシャン・レジームによって不当利益を得ている集団に報復を行う」と記されていた。この手の誇大妄想にもとづく脅迫状まがいの怪文書は1日に何通も届くため、保存されるだけで、特に対応はとられなかった。

 翌日、都内で大規模な爆破事件が起きる。場所は港区白金台にある高齢者向け分譲マンション。152戸中、9割にあたる130戸が全壊する大惨事で入居者の8割に当たる127名が死亡。
Bill Waugh—AP/Shutterstock.com ()Encyclopædia Britannica

 警視庁は高齢者を狙う連続テロとみなし、捜査チームを結成する。ほぼ全壊した高齢者向け分譲マンションの現場からは、建物の随所に仕掛けられた時限爆破装置と、実行犯と思しき人物の焼死体が発見された。検視の結果、実行犯はこのマンションと提携する介護サービス会社のスタッフの28歳男性Aであることが判明する。
 次の日の昼、高齢者の「社会的入院」が多い世田谷区の病院で停電が発生。地震など災害時にも作動した自家発電装置も機能せず、3時間にわたり電源喪失。呼吸器が停止するなどの影響で、患者40名が亡くなった。
 警視庁は事件の後すぐ、病院の清掃スタッフの32歳女性Bを全国に指名手配。Bは朝、出勤してきた後、停電の直後から行方が分からなくなっていた。高齢者を狙った事件が相次いだことから、警視庁では港区のマンション爆破事件と世田谷区の病院停電事件の間に何らかの関係があるのではないかと見ている。チームは病院爆破の実行犯Aの携帯電話(爆破の際に破損)の通信履歴から、Aが頻繁に閲覧していたホームページを見つける。そこには「維新断行・尊若討老」と記されていた。120年ちかく前に軍事クーデター未遂を起こした青年将校らが掲げていた「昭和維新断行・尊皇討奸」からとったものと思われる。
 この日の夜、首相官邸から警視庁に連絡が入る。2日前に届いた怪文書が、高齢者をターゲットにしたテロを示唆していたことを指摘される。ただ、この時点で怪文書と都内で起きた2つの事件の関連はまだ明らかになっていなかった。

都内で無差別連続テロ 高齢者が標的か」 ニュースのヘッドラインを読んだ後藤四郎は、見当違いで理不尽な犯行だとは思いつつも、こんな酷い事件が起きてしまうのは、20世紀におきた「少子高齢化」を放置してきた結果であることを痛感した。少子高齢化によって人口に占める高齢者の割合が多くなり、医療・介護費用が現役勤労世代に重くのしかかっている。
 日本の医療費は、2025年にすでに66兆円(GDP9%)を超えており[4]1970年代前半に生まれた団塊ジュニア世代が後期高齢者となった2050年には、医療費は90兆円を超え、GDP11%を占めるにいたった(下図[5])。

上田・堀内・森田.(2010)「医療費および医療財政の将来推計」京都大学経済研究所ディスカッションペーパー, No. 0907.


医療費90兆円といってものうち、その過半50兆円が75歳以上の高齢者医療費に消えていく。その財源のほとんどは、現役勤労世代が支払う健康保険料や税金である。その健康保険料にしても、保険という名目ではあるものの、その実際は高齢者医療費を賄うための税金にすぎない。また、20%の消費税率のうち、5%相当はこの医療費公費負担にあてられている。カルテ電子化やレセプト開示などで、医療費の「適正化」はある程度進んだものの、高齢化や医療技術進歩による医療費増加は避けられなかった。むしろ、急激な少子高齢化が問題だった。医療費の増加を社会全体で負担するためにも勤労世代の年齢層の厚みが必要であったが、それがかなわなかったのだ。

後手にまわった少子化対策
財政破綻・世代間対立・社会保障負担、これらが少子高齢化による危機の最終段階であるならば、その“危機はすでに100年前からゆっくり始まっていたように後藤には思えた。少子化のはじまりは、日本の場合、19458月に始まる戦後民主化にあったはずだ。それ以前、女性には参政権もなく差別されていたが、20世紀後半には日本だけでなく先進各国で女性の地位が大きく向上した。また同時期に日本は高度経済成長を体験し、家族のあり方も変わり、少子化社会に突入した。

 1945(昭和20)年 女性が参政権を獲得。同じ頃、大学も共学化される。

 1966(昭和41)年 結婚退職制度を違法とした東京地裁判決(住友セメント事件)。
 1967(昭和42)年 恋愛結婚の割合と見合い結婚の割合が逆転。
 1968(昭和43)年 日本のGNPが西ドイツを抜き、世界第2位の経済大国に。
 1969(昭和44)年 女子の高校進学率(79.5%)初めて男子(79.2%)を上回る。
 1974(昭和49)年 第2次ベビーブーム終了。出生率2.05に。人口維持水準を下回る。
 1985(昭和60)年 女性差別撤廃条約批准・男女雇用機会均等法改正。
 1990(平成 2)年 「1.57ショック」。少子化が社会問題として広く認識される。
 2005(平成17)年 総人口の減少がはじまる。

20世紀後半、少子化は先進国共通の現象であり、社会が経済的に豊かになるにつれ少子化が進んだ。家庭において子どもは労働力ではなくなったし、高学歴化にともない子ども一人当たりの育児費用は伸びていく。その一方で、社会保障制度の拡充によって、子どもだけに老後をみてもらうのではなく、政府が年金や介護などの面倒をみてくれるようにもなった。こうして、子どもを持つことの投資的性質はうすれ消費的性質が強くなったし、家族における子どものあり方も「量より質へ」と変わっていったのだ。
 また、女性の経済的地位の向上に社会が対応しきれなかった。20世紀後半、労働市場における女性差別はすこしずつなくなっていった。かつては、女性35歳定年制のように女性の「寿退社(結婚退職)」を前提とした雇用環境が当然とされていて、女性が男性と同等に給与をえるということは極めてまれであった。女性は20代で結婚し、職場を去り家庭に入る。そして、そこで子どもを産み育てることが期待されていた時代で、女性の経済的自立は困難だ。だが、職場における性差別的待遇が違法となり、少なくとも形式的な男女差別は解消されていったのが、20世紀後半である。それにともない経済力をつけた女性は、必ずしも20代で結婚しなくてもよくなった。しかし、育児や親の介護を「嫁」に押し付けるという性的分業の家族観は大きく変化しなかった。したがって、結婚そのものの魅力や必要性は相対的に低下していく。女性に子どもを「産ませる」ことをやめ、「産んでもらう」ことに転換すべき時期がちょうど20世紀末であったのだが、男性中心の経済文化構造は簡単には変わらなかったのだ。
 後藤は、学生の頃に当時の新聞記事などを読む機会があり、経済界が男女差別的雇用慣行を正当化しつづけていたことを知った。65年前の1985年に男女雇用機会均等法という、現在の感覚からすればその存在理由さえ滑稽な法律がつくられた。その法制化に奔走した官僚の回顧録[6]には、経団連の稲山嘉寛会長との面談の様子が書かれており、その席で会長は「[婦人に]参政権なんかもたせるから、歯止めなくなってしまっていけませんなあ」と述べたという。日経連にも、男女雇用機会均等法に反対の声明を出す動きがあったようで、経済界は男女同権に根ざした新しい雇用形態に極めて後ろ向きで否定的だった。
 ところが、21世紀になって少子化の影響が経済にも及んでくると、経済界は手のひらを返したように"女性活用"をとなえはじめた。女性には家庭に入らずに働きつづけてもらわないと困るし、同時に、子どもも産んでもらわないと困るというのだ。そうでなければ、日本経済は立ち行かなくなるとまでいいだした。当時を生きていれば時代の変化を感じることもあったかもしれないが、50年以上経ったいまから振り返れば、その豹変ぶりはほとんど冗談だ。21世紀になってもしばらくは、大企業の役員や政治家はほとんど男性で占められており、職場では依然として社員の長時間労働は解消されず、育児をしながら働く社員を露骨に差別する企業も少なくなかった。そんな彼らが女性に向かって、働き続けて税金は払って、でも子どもも産んでという。ずいぶん虫のいい話だ、後藤にはそうとしか思えなかった。結局のところ、出生率は1.0台に下がったまま人口は減少しつづけた。
1975年に出生率は2未満となったが、社会がそれを問題として認識するまでにさらに15年を要した。1989年の出生率は1.57にまで低下し、ついに1966年のそれ(丙午の迷信でこの年だけ出生率が極端に低かった)を下回った。これは当時の日本社会に「1.57ショック」という大きな衝撃を与え、この時期から政府はようやく少子化対策に取り組むようになった。
  1990年 厚生省「これからの家庭と子育てに関する懇談会報告書」
  1994年 文部・厚生・労働・建設の4大臣合意「エンゼルプラン」
  1999年 大蔵・文部・厚生・労働・建設・自治の6大臣合意「新エンゼルプラン」
  2003年 少子化社会対策基本法・次世代育成支援対策推進法



しかし、それはすでに遅すぎた。1.57ショック以降、政府は数多くの検討会議や有識者会議などを設け、報告書・大綱・行動指針の類を打ち出した。後藤は、それらを読み返してみた。ごくまっとうなことが書かれていて、子育てという役目を女性や家庭におしつけず、社会で共有しようといってみたり、男性の子育て参加を促進したり、50年前にしては悪くない。だが、そうした報告書や行動指針は乱発気味で、掛け声倒れに終わったようだ。なにより、財源がともなわなかった。子育て支援関連の予算はGDP1%前後で、子育てを社会で共有しているとはとてもいえなかった。
出生率が2を切り、総人口の減少が始まる2005年までのちょうど30年間。この時期に高齢者向けの社会保障給付(医療・年金・福祉など)は激増した(図)

当時の社会問題は「高齢化」。厚生省「これからの家庭と子育てに関する懇談会報告書」(
19901月)のまとめ部分には、次のように書かれていた:「これまで「高齢化」の名のもとに,社会全体の目が高齢者に向けられてきたと言っても過言ではない。しかし,将来の社会を担っていくのは現在の子どもたちであり… 子どもは人頬の未来であり,子育ては未来社会の設計という人類がなしうる最も創造的な営みである」。また、2004年に政府は『少子化社会白書』(のちに『子ども・子育て白書』)を発行し始めた。その第1号には、「高齢者重点型から少子化社会対策の強化を」と予算配分に触れてはっきりと核心が書かれていた。同白書は毎号、GDP比で2~3%は子育て支援財源が必要だと繰り返し主張していた。だが、当時の増税議論をみても、そういった主張は国政に反映されなかった。2010年代の消費税率引き上げのときの資料を見つけた後藤は、その内容に苦笑せざるを得なかった。消費税歳入は、それまで高齢者3経費(年金・医療・介護)にあたられてきたが、そのときの税率引き上げにともない、高齢者3経費だけでなく、「未来への投資(子ども・子育て支援)」も使途にいれたというのである。たしかに、高齢者向け社会保障の拡充のためだけに増税するというのでは、世論が納得しなかったのだろう。ところが、実際はちがった。子育て支援にあてられる歳入などほとんどなく、2010年代前半の消費税増税分のほぼすべてが高齢者3経費に消えたのだった:

消費税率5%引き上げによる増収見込み:      13.5兆円。
(内:子育て財源にあてられる分               0.7兆円)



その「未来への投資」を怠った結果が現状である。後藤にいわせれば、なるべくしてなった超高齢化社会だ。

 高齢者が標的だと報じられ、高齢者が多く入居する富裕層向けマンションや病院は、独自に警備を強化した。四郎は、政治家が入院することで有名な都内の病院のまえを偶然に通りかかり、その玄関前に長蛇の列ができていることに驚いた。タクシーの運転手に聞くと、荷物検査だけでなく、来院者ひとりひとりに金属探知機をあててボディチェックをしているという。その列を整理するために、警備員が臨時増員されている。よくみると30歳前後の若者が警備員として高齢者たちの列を護衛している。警備員はフリーターだろうか非正規雇用だろうか。彼らが非正規雇用で得た給与の約3割は、彼らが護衛している高齢者の受け取る年金や医療費に使われている。世代間格差を象徴するような光景だ。

21世紀になってから世代会計という計算手法をつかって、世代間格差の推計がなされるようになった。2001年の年次経済財政報告の推計では、団塊世代がいわば持ち逃げした社会保障(主に年金)のツケを後の世代がかぶっている様子が図示されていた。1940年代生まれの世代は、差し引きで約5000万円を社会保障などで政府から受け取っている。そしてそのツケが、後藤たち21世紀生まれの世代に残された。21世紀生まれは一人当たり約5000万円の国の借金を背負っており、1940年代や団塊世代の受け取った社会保障給付を肩代わりして支払う形になっている。
団塊ジュニア世代(1970年代前半生まれ)が2050年現在の高齢者で、彼らはたしかに1000万円ほどの払い損になってはいるが、いまの若者ほどではない。高齢者と若者の世代間格差は依然として4000万円ちかく存在するのだ。

特に、年金の過大給付「払いすぎ」が大きなツケを残した。公的年金債務は2010年頃には550兆円を超えており、すでに取り返しがつかないことになっていた。勤労世代が負担する保険料だけでは、当時の年金給付を賄うことはすでにできなかったため、2008年には年金積立金の取り崩しがはじまった。そして、2030年に年金積立金が枯渇した。

世代間格差を是正しようという動きがなかったわけではない。10年前、2040年総選挙のときに、世代間格差解消を掲げた「日本若者党」が各地に候補者を擁立し、「政府のアンチエイジング」や「シルバー民主主義をかえよう」といったスローガンで支持を呼びかけた。だがすでに60歳以上が全有権者の過半数を占めており、年金給付適正化などの公約に票はあつまらなかった。そもそも勝ち目のない選挙戦であったが、「日本若者党」がなげかけた世代間格差の問題に20代の若者も関心をもち、20代の投票率は60%にまで上がった。20代の投票率が60%を超えたのは1980年が最後で、実に60年ぶりのことだった。だが、投票者の年齢構成をみると、3分の2が50歳以上であった(図)。

日本若者党は惨敗。結局、1議席も獲得できなかった。
 こうした事態を見越して、前世紀から「年齢別選挙区」の導入をとなえる経済学者もいた。有権者の年齢ごとに選挙区を設け、たとえば、20~30代の若者区、40~50代の中年区、60代からは老年区とする。その選挙区ごとに議員を選ぶというアイディアだ。これなら、人口構成がゆがんでも、若者の声は一定数の議員を通じて、少なくとも国会に届くはずだ。また、21世紀に入ったばかりのころ、別の経済学者が「余命別選挙制度」を提唱した。これは、余命に応じて選挙権に重みをつける仕組みで、余命の長い若者の選挙権を重くするものだ。年齢別選挙区をもとに、議席配分を余命でウェイトをつけることでそれを実現する。生涯を通じた1票の重みは同じなので、1人1票の原則も守られる。これならば、現在のようなシルバー民主主義の膠着状態に陥らずにすむという発想だった。だが、もちろん、これらの年齢別選挙区にしても、余命別選挙制度にしても、それが現実的な改革案として取り上げられることはなかった。

連続テロ3日目。高齢者を直接標的にしたテロに対しては厳重な警戒体制がしかれていたが、その虚をついたように、午前10時に日本年金機構ビルに爆破予告が入った。年金機構が「世代間の助け合い」という名のもとに行なってきた「搾取」に対しての報復だというのだ。ただちに全職員がビル外へ退避し、同時に爆発物処理班が到着し、爆発物の捜索を開始した。午後3時に爆発物がみつかったものの、現場での爆発物解体処理が必要で周辺ビルに入居するすべての人を強制退避させなくてはならなかった。ようやく午後9時をまわった頃に爆発物の無力化に成功する。
だが翌日、年金機構のデータサーバーに外部から侵入があり、年金記録の大部分が大幅に改竄されていることが判明した。爆破予告をおとりにしながら、年金記録データをねらったサイバーテロであった。これにより年金給付手続きがしばらく停止し、現金を手にできなかった年金生活者が絶望のあまり命を絶ってしまうという痛ましいニュースがそのあとに何件か続いた。

一連のニュースは、公的年金制度の最悪の帰結であるように後藤には感じられた。そもそも1960~80年代に導入された公的年金の仕組み自体、ねずみ講みたいなもので無理があった。危機のはじまりは、過去の年金の大盤振る舞いにある。
もちろん、80年代から低下傾向にあった出生率が回復しさえすれば帳尻はあったかもしれない。政府が年金財政の将来見通しを推計するたびに出生率は下がりつづけていたのだが、それにもかかわらず、出生率は回復するという楽観的希望を「推計」と称することで年金財政の持続可能性を強調しつづけた。


厚生省の研究機関は出生率が回復するという「推計」を出し続け、

厚生省はそれを前提に年金収支を計算してきた



出生率の回復が望めないことがわかってからも、政府は年金の大盤振る舞いを改めなかった。出生率のごまかしがきかなくなってからは、経済見通しの「推計」で帳尻をあわせるようになった。後藤は、当時の財政検証の資料を探してみたところ、後藤が小学校に入学した頃の2009年のものが見つかった。たしかに、少子化が進行しても、経済成長が続けば、なんとか持ちこたえられたかもしれない。資料によると、賃金は年率2.5%で成長しつづけ、さらに女性や高齢者の労働参加も進み、保険料収入が伸びると予測していたようだ。そして、積立金運用では年率4.1%の運用益が見込まれている。物価上昇率は1.0%なので、実質年金給付はすこしずつ減っていくという目論見だった。「何だ、これは」、後藤がおもわず漏らした言葉が図書館に響く。だがこうした甘い目論見も、20XX年に起きた日本国債暴落危機以降は政策論議の舞台から姿を消した。

「少子高齢化の時限爆弾」。後藤四郎が大学院生の頃に、財政学の講義で何度も聞かされた言葉だ。その講義を担当していたのは1970年台前半に生まれた第2次ベビーブーマー・団塊ジュニアで、自分たちの世代が国家財政を破綻させるんだろうと自嘲気味にいいながら、その言葉を繰り返していた。ただし、その准教授は「でも、わたしは子どもを3人産みましたからね」と必ずそのあとに付け加えることを忘れなかった。彼女にとっては、少子化社会においてそれが自分にできる一番の社会貢献だというのだった。

国会が臨時招集される。与野党間の責任追及問題で議論は空転して、なにも進まず。

高齢化がすすむ東南アジア諸国では、介護士需要が急増している。そうしたなかフィリピンやインドネシアから介護労働者が日本に来なくなって久しい。日本政府が介護士不足の打開策として考えているのは、旧北朝鮮領内にいる人々を移民として受け入れることだった。その介護士資格認定試験を受けに、旧北朝鮮領内から約5000人の移民が呼び寄せられた。マスメディアを呼んで、資格試験受験者が会場を埋め尽くす様子を全国に見せつけ、内閣支持率をすこしでもあげようというイベントである。ただし、資格試験といっても、右左もわからぬ難民同様の人達を無理やり介護士に仕立てあげるというのだから、試験問題にはハングルで注釈がたくさん入っているという。
テロ4日目の標的となったのは、その試験会場だった。介護士を外国人にまかせてしまっては、さらなる介護報酬の切り下げの口実を与えるだけだ、とでもいうのか。爆破予告をうけ、受験者たちを外に避難させるも、日本語もわからない彼らは慌て、会場付近は混乱を極めた。爆破予告どおりの場所に爆発物が発見され、3時間後に無事に撤去された。試験を予備会場で開始するために受験者を再度呼び集めたが、集まったのはわずかに3300人程度であり、およそ3分の1が文字通り着の身着のまま"不法難民"となり東京都内各所に消えていった。

次の日、後藤四郎は、財政学の講義で教壇に立っていた。連続テロ事件の背景を解説したあとで、選挙の経済学モデルを教えはじめた。1人1票という20世紀の普通選挙制度が、実は人口減少期には、高齢者優遇のワナに陥ることを示した。そして、とても極端で理不尽なのはいうまでもないが、まさにその高齢者優遇のツケが、一連のテロ事件という形で現れてしまったのだと話した。だが、学生からの反応は冷たい。お前たち大人に責任があるだろう、といわんばかりだ。彼らの気持は十分わかるし、多くの優秀な若者が海外にでていってしまうのも当然だ。ただ四郎は残念に思うのは、仮に高齢者優遇のツケがあっても、少子化がここまですすまなければ、若者の未来はもうすこし明るかったかもしれないということだ。四郎は、かつての財政学の講義を思い出した。そこで、苦笑いをしながら、「ま、ぼくにも子どもが2人いるんだけどね」と付け加えるのが精一杯だった。
週末に訪れる予定の実家には近い将来に介護を必要とする両親が住んでいる、また自分自身の老後のことも心配だ。息子がアフリカの大学を進学先に選んだことも気になる。これがほんとは夢をみているだけなんだと思いたかったが、少なくとも学者である自分がそんな希望的憶測に逃げてはいけないと自戒し、学生に向き直り講義を再開した。

ラストシーン:
午後6時10分にチャイムがなり、チャイム終了時にあわせて後藤は「回答やめ。筆記用具をおいてください」と大きな声で教室の受験生たちに伝えた。これで、東大入試の第1日目の全科目が終了した。1日目は特に問題なくおわったようだ。秋入学に移行したあとも、国立大学の受験日は2月25・26日のままで、日本社会で何十年と変わらぬものの一つである。手順通りに回答用紙を数え上げ、受験者数と一致したのを確かめてから、封筒に入れた後藤は、所定欄にサインペンでなかば殴り書きのように自著した。暗い窓の外をながめても何も見えない。天気予報のとおり、すでに午後から雪が降り始めていて、明日の明け方には都内でも10数年ぶりの積雪となるらしい。もうすでにいくらか積もっているのだろうか、靴下の替えを持ってくればよかった。明日は積もるね、と傍らの事務職員に話しかけると、明朝交通機関が止まった場合の対処を教えてくれる。外に出ると、うっすらと積りはじめていた雪がひかっていた。
 その夜、高齢者を狙った無差別大規模テロ計画が発覚。特殊部隊に出動要請が出る。夜半すぎから雪の積りだした街中を、500名余りを乗せた装甲車両の列が現場に向かう。大規模なテロ計画だという情報があり、車両には爆発物処理班だけでなく、自動小銃で武装した特殊部隊の精鋭が多く乗り込んだ。
隊列は都内に入ったが、目的地への道から逸れていく。異常に気付いた司令部が「君たちはどこに向かっているのか」と問うと、部隊を率いているはずの連隊長からの応答はなかった。かわりに、「我々は全員、35歳以下であります。ニッポンの未来を守るために全力を尽くす所存です」と告げる声が聞こえ、通信は途切れる。司令部の誰もが何かを言おうと言葉を探す。その虚をつくように、0時の時報が鳴り、日付が変わった。
2050年の「2・26」もまた、都内には早朝から雪が積もっていた。


1945(昭和20)年 女性が参政権を獲得。同じ頃、大学も共学化される。
1968(昭和43)年 日本のGNPが西ドイツを抜き、世界第2位の経済大国に。
1974(昭和49)年 第2次ベビーブーム終了。出生率2.05に。人口維持水準を下回る。
1985(昭和60)年 女性差別撤廃条約批准・男女雇用機会均等法改正
1990(平成 2)年 「1.57ショック」。少子化が社会問題として広く認識される。
2005(平成17)年 総人口の減少がはじまる。
2008(平成20)年 年金積立金取り崩し開始
2010(平成22)年 GDP世界2位から転落。中国に抜かれる。 
20XX年 日本国債暴落
2020年 消費税率20%に
2030年 年金積立金枯渇
2040年 日本若者党の「かえよう!シルバー民主主義」が話題に。
2050年 若者がテロリストになる日




私のシナリオ原案から起こしたものが、この書籍の「人口衰弱」という章にまとまっております。(結末は私の原案よりもだいぶぬるい結果になっています)

財団法人日本再建イニシアティブ『日本最悪のシナリオ 9つの死角』新潮社、2013年。



[1] 国立社会保障・人口問題研究所『日本の将来推計人口(平成241月推計)』の出生低位(死亡中位)推計。
[2] たとえば、21世紀政策研究所『社会保障の新たな制度設計に向けて』の試算(表5)。
[3] たとえば、財政制度審議会起草検討委員会資料「財政の持続可能性についての分析(平成19年)」によれば、公的債務残高がGDPの約4倍にのぼると試算している。
[4] 社会保障国民会議「医療・介護シミュレーション」経済前提 Ⅱ-2 の場合。
[5] 上田・堀内・森田.(2010)「医療費および医療財政の将来推計」京都大学経済研究所ディスカッションペーパー, No. 0907.
[6] 赤松良子『均等法をつくる』勁草書房、2003年。
[7] 資料:国立社会保障・人口問題研究所「社会保障給付費」。