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2020年9月4日

「トイレ後の手洗い推進ステッカーに関する調査結果」:実験調査で重要なポイント

 

東京都福祉保健局のステッカー試作品(東京都食品安全情報評価委員会資料より)

東京都福祉保健局が、主に調理従事者の手洗い促進ステッカーを試作し、その効果測定も実施した。新型コロナウイルスが流行する直前の1月~2月での調査。その結果が、「令和元年度第2回 東京都食品安全情報評価委員会」にて報告されている(議事要録等)。

上の図は、東京都福祉保健局による手洗い促進ステッカー。左のA案は「試験中」とすることで”見られている”感を醸し出すのがねらいで、右のB案は損失を強調するコンセプトで作られている。調査目的は、新型コロナウイルス感染予防のためではなく、食中毒を予防するための「調理従事者の手洗い」促進である。

飲食店等の調理従事者による手洗い実施率の向上を図る観点から、手洗いの意義等を認識しながら行動につながっていない調理従事者に対して、トイレ後の手洗い行動の変容を促すため、より効果的なステッカー原画について検討することを目的として、本調査を実施した。

出典:資料5-3 トイレ後の手洗い推進ステッカーに関する調査結果


他にもC案として次のようなステッカーが作成されている。

C案は、手のステッカーを複数用意して、トイレの様々な場所に貼る。そして、利用者の興味を引き出したところで、手洗い場で「石鹸を使おう」と呼びかけるもの。

効果のあったステッカーは?

この3種類のステッカーを、(1)調理師養成学校、(2)都関連施設、(3)保健所[食品事業者向け講習会開催日]のトイレに掲示し、石鹸の使用量を調べた。調理師養成学校と保健所では、手洗いの効果がデータで示されたうえで、雇用者や保健所に観察されていると訴えるA案の効果が高かったとのこと。

食品事業者が講習を受ける保健所でのデータ。トイレ利用1人当たりの石鹸使用頻度が計算されている。やはり保健所に講習を受けに来て、トイレにいくと「試験中」と書いてあれば、石鹸を使う気持ちは高まるはずだ。(東京都食品安全情報評価委員会資料より筆者作成。ステッカー図案は同委員会公開資料。)

場所によって効果は異なるのかも

ただし、都関連施設ではB案の効果が高いと出ている。利用者が都職員とあるので、おそらく職場のトイレでの石鹸使用量の観察だろう。やはり飲食店や食品事業の関係者でないからなのか、手洗いしないことの損失をホラー仕立てでカジュアルに訴えるB案のほうが効果があったということなのかもしれない。

食中毒に直接関連しない場合は、B案のように「手は汚い」という単純なメッセージで十分なのかもしれない。
食中毒に直接関連しない場合は、B案のように「手は汚い」という単純なメッセージで十分なのかもしれない。


「ナッジ」の調査で重要なこと

政府/公共機関による啓発事業において、A/Bテストが行われ、そして、A/Bテストの結果が公開資料になっているのはとても良いことです。ただし、いくつかもったいないなと気になる点がありましたので、列挙してみます。同様の調査をお考えの政策担当者の皆さんにお役にたてば幸いです。

(1)ランダム化比較試験(RCT)でない。

RCTでないところはやはり気になります。例えば、保健所での調査では、ステッカーA案を掲示する保健所Xと、B案を掲示した保健所Yは、別の場所でした。これでは「保健所の調査ではA案の効果が高かった」といいきれず、「保健所Xでは、ステッカー掲示の場所がよかっただけ」といわれたら否定できない。もちろん、調査対象とできる場所が限られているので仕方ないことですが、せめて、3日目にはステッカーの種類を入れ替えて、保健所XでB案、保健所YでA案としたほうがよかったです。そうすれば、保健所による(例えばステッカー掲示場所の)違いに起因する効果をある程度相殺できたはずです。

(2)統制群(コントロールグループ)がない!

これも気になります。ステッカーの効果をみるときは、ステッカー使用前と使用中を比較するだけでなく、なるべく、ステッカーを使用していないトイレ(統制群)との比較をすべきです。前後の比較、A案とB案の比較も大事ですが、なによりも統制群との比較は不可欠です。それによって、ステッカーの効果が本当にあったかどうかについて推測もできます。

(3)サンプルサイズを考慮にいれていない。

例えば、都関連施設での調査では、ステッカー3種類×観察期間3週×男女トイレ2種類で、N=18。このサンプルサイズだと、石鹸使用量の増加は誤差の範囲にすぎないといわれてしまえば、全く否定できません。


 石鹸使用量を各要素(男女、フロア、ステッカー種類)で説明するための単純な回帰分析の結果は次の表のようになります。石鹸使用量にいわゆる”有意差”が出るのは、女性であることだけで、ステッカーの効果は確認されません(これにしても、女性が石鹸を多く使っているからなのか、女性の利用者が多いからなのかも、利用者数を記録していないのでデータからは判別できません)。

ダミー変数で各要素の影響を調べるのは基本(分野によっては
ダミー変数で各要素の影響を調べるのは基本(分野によっては"分散分析")。東京都食品安全情報評価委員会資料より筆者作成。


(4)セグメント化していない。

これももったいないです。例えば、上記の分析で交差項までみると、実は、女性用トイレではステッカーC案があると石鹸使用量が有意に低いことがわかります(ランダム化されていないので、結論づけはしませんが)。ナッジは、人によって効き方(いわゆる「刺さり方」)が大きく異なるので、その違いをよく把握してナッジをカスタマイズ・パーソナライズしたほうがよいですし、そのためのデータ分析も欠かせません。

(5)ステッカーデザインの全体が案によって異なるので、効果の差異の説明がつかない

工夫を凝らしてステッカーのデザインを複数作り込むのは重要です。しかし、A案に効果ありとデータが示していても、それはなぜなのかがまだわかりにくいです。例えば、A案の赤色に起因するのか、それともメッセージ内容によるものなのかが全くわからないので、次のデザイン考案に活かすことができないのが残念です。もし、効果量が異なることの原因(要素)を探りたいのであれば、ステッカーのなかに交換可能なパーツを用意し、そのパーツ部分だけを変更すればよいでしょう。そうすれば、甲案と乙案の効果の違いはそのパーツ部分にあると限定できます。もちろん、その分、甲と乙の効果量の差は縮まってしまうでしょうから、結果のインパクトと原因追求とはトレードオフにあります。

(6)ステッカーの汎用性がない

A案のステッカーでは手洗い効果を「試験中」となっており、たしかにこの調査では試験中ですが、このステッカーをそのまま全国で使用することはできません(普及版では「検証中」とされていますが、福祉保健局が本当に「検証」しているわけではないでしょう)。また、B案もホラーの要素が強すぎて、お客さんも利用するタイプのトイレでは到底使えないし、ナッジの「面倒なことでも前向きに取り組める」ように誘導する理念にそぐわないように思いました。せっかくですから、すぐに全国規模で使えるものだと良いですね。

上記のような気になる点はいくつかありますが、効果測定や結果の数値を、公開資料としてウェブサイトに見えるようにしてあるのは、とても素晴らしいことだと思います。その点は、東京都福祉保健局の担当者・企画者の方に本当に感謝です。

2019年6月12日

行動経済学「ナッジ」は政策を変えるのか?

2019年5月21日、経済産業省(METI)はナッジユニットを設置すると発表した。イギリスやアメリカ等ではすでに先行事例があるナッジの政策応用について、その費用対効果を検証した論文があるので、そのひとつを紹介したい。
「経済産業省は、政策の施策効果の向上を図るため、行動経済学の知見に基づく新たな政策手法である「ナッジ」の活用に向けて、省内に新たなプロジェクトチーム「METIナッジユニット」を設置します。今後、METIナッジユニットが中心となり、専門家の協力を得ながら、エネルギーや中小企業施策などの分野で具体的なナッジプロジェクトを組成・推進します。」出典:同上

ナッジが政策に

「ナッジ(nudge)」は、肘で軽くつついて人を動かすこと。家計や企業といった経済主体の行動を政策目標に沿うように誘導するために、これまでは税や補助金が使われてきた。例えば、太陽光発電を促したい、あるいは住宅の耐震化をすすめたいのであれば、それにそった補助金制度が整備される。しかし、税制優遇や補助金だけではどうやら不十分であることが理解されてきた。なぜなら、補助金などを考慮すれば合理的には正しいはずの行動でも、意思決定に直面する人の多くに行動経済学的なバイアスがあるせいで、正しい行動をうまくとることができないからだ
これを受け、各国政府のなかで通称ナッジユニットとよばれる政策の企画立案部署が設置された。イギリスでは2010年に内閣にナッジユニットが設立され、アメリカでもオバマ大統領が2015年に行動科学を政策に応用するためのSocial and Behavioral Sciences Teamを設置した。世界銀行のなかにも行動科学の専門家チームeMBeDがある。実際のところ、どの程度の効果があるのか。またナッジを効かすにあたっての注意事項等を以下で整理しよう。

ナッジの費用対効果

Psychological Science 誌に「Should Governments Invest More in Nudging?(政府はナッジにもっと投資すべきか?)」という論文が公刊された。この論文の著者には、『実践 行動経済学(原題:Nudge)』を記したサンスティーン教授とセイラー教授も含まれる。
論文は、4つの分野(退職金積立促進、大学進学支援、省エネ促進、インフルエンザ予防接種促進)において、ナッジ手法による効果と、補助金などの伝統的な政策による効果を比較している。比較対象となる伝統的な政策については、各分野でのトップ3の学術誌に2000年~2015年までに掲載された研究結果の数値が用いられた。

退職金積立促進

まず退職金積立促進におけるナッジは単純で、従業員に就職後1ヶ月以内に積立率を選んでもらうだけだ。このナッジのおかげで、従業員給与の1%相当が新たに退職金積立に振り向けられたという。その費用対効果は低めに見積もっても、コスト$1当たりで、積立金の増加額年間$100に相当した。伝統的な税制優遇や補助金などよりもずっとインパクトは大きい。

就職直後に退職金積立の申込をしてもらう「ナッジ」だけの効果は、
補助金や税制優遇などよりもずっと効果が大きい

大学進学支援

大学進学支援についてもナッジの効果は大きい。低所得世帯の高校生をターゲットに大学進学を促すような補助金や奨学金などはあるが、それが果たす役割(大学進学を増やす効果)はナッジに比べれば限定的だ。ここでのナッジは、連邦学資援助無料申込(FAFSA)の入力支援と援助額の見積サービスだ。このサービスを受けたグループでは、そうでない統制グループと比べて、進学率が8.1%ポイント上昇したという。支援見積サービスの単価が1件当たり$53.02かかったので、政策コスト$1,000当たりになおすと政策効果は1.53人分の大学進学人数に相当する。これは他の伝統的な政策(その多くは金銭的な援助を提供する)に比べても大きい。
連邦学資援助無料申込(FAFSA)の入力支援と援助額の見積サービスを受けるだけで大学進学率が上昇する。他の金銭的な援助をする政策よりも効果ははるかに大きい。
連邦学資援助無料申込(FAFSA)の入力支援と援助額の見積サービスを受けるだけで大学進学率が上昇する。
他の金銭的な援助をする政策よりも効果ははるかに大きい。

省エネ促進

省エネについても、電気料金が割引になるといった金銭的動機ではなく、省エネが環境に良いことだという社会規範に訴えるナッジのほうが効果が大きい。
金銭的な見返りよりも、社会的意義を理解するほうが人は行動を変えやすいこともある。
料金割引につられて省エネをしているわけではない。