財団法人日本再建イニシアティブ『日本最悪のシナリオ 9つの死角』新潮社、2013年。のなかの「人口衰弱」の原案を担当しました。シナリオ原案をここにすこし紹介いたします。
(決して起きてはならないという意味で「最悪の最悪」を想定するミッションでのフィクションです。また各数値・試算や議論については、必ずしも学術的な裏付けが十分でなくとも、フィクションとして使っておりますことご了承ください)
(決して起きてはならないという意味で「最悪の最悪」を想定するミッションでのフィクションです。また各数値・試算や議論については、必ずしも学術的な裏付けが十分でなくとも、フィクションとして使っておりますことご了承ください)
2010年代、第2次ベビーブーマーが40歳を迎え出産可能年齢を越えた。だが、第3次ベビーブームは到来しなかった、少子化対策は失敗したのだった。そして、このまま少子高齢化がすすみ、2050年には総人口の4割が高齢者になる。医療や介護などの社会保障費は現役世代に重くのしかかり、多額の年金給付をまかなうために社会保険料は上がり続けた。高齢者世代のための年金・医療・介護制度といった“大盤振舞”は、その財源もないまま膨張し続け、若者世代には1人当たり5000万円を超える大きな借金が残された。重税に苦しむ若者世代と、その税で老後を暮らす高齢者世代との間には、大きな世代間格差がうまれた。2000年代にすでに指摘されていたこの格差問題は、1970年代生まれの第2次ベビーブーマーが後期高齢者となる2050年にそのピークを迎える。
しかし、高齢者が圧倒的多数を占めるそのとき、1人1票を原則とした選挙制度はそうした高齢者向け社会保障の膨張とその負担を若者世代におしつける政治に歯止めをかけることはできなかった。そして、絶望した若者たちの一部に狂信的思想がひろまる。最悪のシナリオでは、世代間格差を解消できない政治への絶望と怒りがつのる2050年には、世代間平等をとなえる革命思想が若者の心をとらえることになる。
「時代は変わった」。経済学者の後藤四郎はつぶやいた。来春、麻布高校を卒業する後藤の次男の六郎が、海外の大学に進学すると言い出したのである。最近では都内の進学校出身の高校生が欧米や中国の大学に進むことは、さほど珍しくなくなった。ところが六郎が進学を希望するのはアフリカのチュニジアにある北アフリカ総合大学だという。カルタゴの遺跡くらいの知識しかなかった後藤に対し、六郎はこう言った。「お父さんはどうせ、アフリカの大学で何を学べる?とか思っているんでしょう。言っとくけどチュニジアはアフリカで一番平和な国だし、日本と違って経済成長してる。人口が増えているし、何より若者が多いんだよ」。
実際、今の日本で若者は少数派だ。街を歩いていると高齢者ばかりが目につく。通勤時間帯に赤坂見附から地下鉄銀座線に乗っても、座れるという事実に、四郎は先日驚いたばかりだ。一方、お昼前後に都バスに乗ると、シルバーパスをかざして無料で乗ってくる高齢者が列をなしている。これでは財政が破綻するのも当然だ、と四郎は考えている。
マクロ経済学を専攻する後藤は東京大学で教鞭をとる。少子化による18歳人口減少の影響は、東大にも及んでいる。留学生を呼び込むため英語で受けられる講義が大半を占め、後藤自身も北京・上海・バンコク・ジャカルタなどアジアの主要都市を回る大学説明会に毎年1カ月程度を費やす。私立大学に至っては、教員の7割強を入れ替え、英語による講義やインターネットによる講義配信を行っている。
ただ、10年ほど前から、東大ではなく中国沿岸部の有名大学を留学先に選ぶ学生も増えてきた。というのも、人口の減少や社会保障の負担の増加により、日本の経済的地位は低下しつづけているからだ。21世紀に入ってGDP世界第2位の座を中国に譲ってから、日本の存在感はうすれるばかり。GDPも2030年にはついにインドに抜かれ、この50年代にはブラジルに追いつかれるといわれている。
その日の午後2時、四郎は霞ヶ関にいた。委員を務める経済財政諮問会議に出席するためだ。議題は消費税率引き上げについて。現在、消費税率は20%だが[2]、社会保障や年金給付への国庫負担などがかさみ、政府の借金は4000兆円に達している[3]。
2010年代から消費税は徐々に引き上げられてきたが、逆進性が問題視されたこと、年金生活者からのロビイングがあり「消費税減免シルバーパス」が発行されることになった。65歳以上の日本国民が店頭でモノやサービスを購入した際、このパスを見せると、消費税を払わなくても良いのである。所得税、消費税、社会保険料、介護保険料など、この頃には負担は全て勤労世代に押し付けられるようになっていた。
2050年1月、首相官邸に怪文書が届く
翌日、都内で大規模な爆破事件が起きる。場所は港区白金台にある高齢者向け分譲マンション。152戸中、9割にあたる130戸が全壊する大惨事で入居者の8割に当たる127名が死亡。
Bill Waugh—AP/Shutterstock.com ()Encyclopædia Britannica |
警視庁は高齢者を狙う連続テロとみなし、捜査チームを結成する。ほぼ全壊した高齢者向け分譲マンションの現場からは、建物の随所に仕掛けられた時限爆破装置と、実行犯と思しき人物の焼死体が発見された。検視の結果、実行犯はこのマンションと提携する介護サービス会社のスタッフの28歳男性Aであることが判明する。
次の日の昼、高齢者の「社会的入院」が多い世田谷区の病院で停電が発生。地震など災害時にも作動した自家発電装置も機能せず、3時間にわたり電源喪失。呼吸器が停止するなどの影響で、患者40名が亡くなった。
警視庁は事件の後すぐ、病院の清掃スタッフの32歳女性Bを全国に指名手配。Bは朝、出勤してきた後、停電の直後から行方が分からなくなっていた。高齢者を狙った事件が相次いだことから、警視庁では港区のマンション爆破事件と世田谷区の病院停電事件の間に何らかの関係があるのではないかと見ている。チームは病院爆破の実行犯Aの携帯電話(爆破の際に破損)の通信履歴から、Aが頻繁に閲覧していたホームページを見つける。そこには「維新断行・尊若討老」と記されていた。120年ちかく前に軍事クーデター未遂を起こした青年将校らが掲げていた「昭和維新断行・尊皇討奸」からとったものと思われる。
この日の夜、首相官邸から警視庁に連絡が入る。2日前に届いた怪文書が、高齢者をターゲットにしたテロを示唆していたことを指摘される。ただ、この時点で怪文書と都内で起きた2つの事件の関連はまだ明らかになっていなかった。
「都内で無差別連続テロ 高齢者が標的か」 ニュースのヘッドラインを読んだ後藤四郎は、見当違いで理不尽な犯行だとは思いつつも、こんな酷い事件が起きてしまうのは、20世紀におきた「少子高齢化」を放置してきた結果であることを痛感した。少子高齢化によって人口に占める高齢者の割合が多くなり、医療・介護費用が現役勤労世代に重くのしかかっている。
日本の医療費は、2025年にすでに66兆円(GDP比9%)を超えており[4]、1970年代前半に生まれた団塊ジュニア世代が後期高齢者となった2050年には、医療費は90兆円を超え、GDP比11%を占めるにいたった(下図[5])。
医療費90兆円といってものうち、その過半50兆円が75歳以上の高齢者医療費に消えていく。その財源のほとんどは、現役勤労世代が支払う健康保険料や税金である。その健康保険料にしても、保険という名目ではあるものの、その実際は高齢者医療費を賄うための税金にすぎない。また、20%の消費税率のうち、5%相当はこの医療費公費負担にあてられている。カルテ電子化やレセプト開示などで、医療費の「適正化」はある程度進んだものの、高齢化や医療技術進歩による医療費増加は避けられなかった。むしろ、急激な少子高齢化が問題だった。医療費の増加を社会全体で負担するためにも勤労世代の年齢層の厚みが必要であったが、それがかなわなかったのだ。
後手にまわった少子化対策
財政破綻・世代間対立・社会保障負担、これらが少子高齢化による危機の最終段階であるならば、その“危機”はすでに100年前からゆっくり始まっていたように後藤には思えた。少子化のはじまりは、日本の場合、1945年8月に始まる戦後民主化にあったはずだ。それ以前、女性には参政権もなく差別されていたが、20世紀後半には日本だけでなく先進各国で女性の地位が大きく向上した。また同時期に日本は高度経済成長を体験し、家族のあり方も変わり、少子化社会に突入した。
1945(昭和20)年 女性が参政権を獲得。同じ頃、大学も共学化される。
1966(昭和41)年 結婚退職制度を違法とした東京地裁判決(住友セメント事件)。
1967(昭和42)年 恋愛結婚の割合と見合い結婚の割合が逆転。
1968(昭和43)年 日本のGNPが西ドイツを抜き、世界第2位の経済大国に。
1969(昭和44)年 女子の高校進学率(79.5%)初めて男子(79.2%)を上回る。
1974(昭和49)年 第2次ベビーブーム終了。出生率2.05に。人口維持水準を下回る。
1985(昭和60)年 女性差別撤廃条約批准・男女雇用機会均等法改正。
1990(平成 2)年 「1.57ショック」。少子化が社会問題として広く認識される。
2005(平成17)年 総人口の減少がはじまる。
1945(昭和20)年 女性が参政権を獲得。同じ頃、大学も共学化される。
1966(昭和41)年 結婚退職制度を違法とした東京地裁判決(住友セメント事件)。
1967(昭和42)年 恋愛結婚の割合と見合い結婚の割合が逆転。
1968(昭和43)年 日本のGNPが西ドイツを抜き、世界第2位の経済大国に。
1969(昭和44)年 女子の高校進学率(79.5%)初めて男子(79.2%)を上回る。
1974(昭和49)年 第2次ベビーブーム終了。出生率2.05に。人口維持水準を下回る。
1985(昭和60)年 女性差別撤廃条約批准・男女雇用機会均等法改正。
1990(平成 2)年 「1.57ショック」。少子化が社会問題として広く認識される。
2005(平成17)年 総人口の減少がはじまる。
20世紀後半、少子化は先進国共通の現象であり、社会が経済的に豊かになるにつれ少子化が進んだ。家庭において子どもは労働力ではなくなったし、高学歴化にともない子ども一人当たりの育児費用は伸びていく。その一方で、社会保障制度の拡充によって、子どもだけに老後をみてもらうのではなく、政府が年金や介護などの面倒をみてくれるようにもなった。こうして、子どもを持つことの投資的性質はうすれ消費的性質が強くなったし、家族における子どものあり方も「量より質へ」と変わっていったのだ。
また、女性の経済的地位の向上に社会が対応しきれなかった。20世紀後半、労働市場における女性差別はすこしずつなくなっていった。かつては、女性35歳定年制のように女性の「寿退社(結婚退職)」を前提とした雇用環境が当然とされていて、女性が男性と同等に給与をえるということは極めてまれであった。女性は20代で結婚し、職場を去り家庭に入る。そして、そこで子どもを産み育てることが期待されていた時代で、女性の経済的自立は困難だ。だが、職場における性差別的待遇が違法となり、少なくとも形式的な男女差別は解消されていったのが、20世紀後半である。それにともない経済力をつけた女性は、必ずしも20代で結婚しなくてもよくなった。しかし、育児や親の介護を「嫁」に押し付けるという性的分業の家族観は大きく変化しなかった。したがって、結婚そのものの魅力や必要性は相対的に低下していく。女性に子どもを「産ませる」ことをやめ、「産んでもらう」ことに転換すべき時期がちょうど20世紀末であったのだが、男性中心の経済文化構造は簡単には変わらなかったのだ。
後藤は、学生の頃に当時の新聞記事などを読む機会があり、経済界が男女差別的雇用慣行を正当化しつづけていたことを知った。65年前の1985年に男女雇用機会均等法という、現在の感覚からすればその存在理由さえ滑稽な法律がつくられた。その法制化に奔走した官僚の回顧録[6]には、経団連の稲山嘉寛会長との面談の様子が書かれており、その席で会長は「[婦人に]参政権なんかもたせるから、歯止めなくなってしまっていけませんなあ」と述べたという。日経連にも、男女雇用機会均等法に反対の声明を出す動きがあったようで、経済界は男女同権に根ざした新しい雇用形態に極めて後ろ向きで否定的だった。
ところが、21世紀になって少子化の影響が経済にも及んでくると、経済界は手のひらを返したように"女性活用"をとなえはじめた。女性には家庭に入らずに働きつづけてもらわないと困るし、同時に、子どもも産んでもらわないと困るというのだ。そうでなければ、日本経済は立ち行かなくなるとまでいいだした。当時を生きていれば時代の変化を感じることもあったかもしれないが、50年以上経ったいまから振り返れば、その豹変ぶりはほとんど冗談だ。21世紀になってもしばらくは、大企業の役員や政治家はほとんど男性で占められており、職場では依然として社員の長時間労働は解消されず、育児をしながら働く社員を露骨に差別する企業も少なくなかった。そんな彼らが女性に向かって、働き続けて税金は払って、でも子どもも産んでという。ずいぶん虫のいい話だ、後藤にはそうとしか思えなかった。結局のところ、出生率は1.0台に下がったまま人口は減少しつづけた。
1975年に出生率は2未満となったが、社会がそれを問題として認識するまでにさらに15年を要した。1989年の出生率は1.57にまで低下し、ついに1966年のそれ(丙午の迷信でこの年だけ出生率が極端に低かった)を下回った。これは当時の日本社会に「1.57ショック」という大きな衝撃を与え、この時期から政府はようやく少子化対策に取り組むようになった。
1990年 厚生省「これからの家庭と子育てに関する懇談会報告書」
1994年 文部・厚生・労働・建設の4大臣合意「エンゼルプラン」
1999年 大蔵・文部・厚生・労働・建設・自治の6大臣合意「新エンゼルプラン」
2003年 少子化社会対策基本法・次世代育成支援対策推進法
出生率が2を切り、総人口の減少が始まる2005年までのちょうど30年間。この時期に高齢者向けの社会保障給付(医療・年金・福祉など)は激増した(図)。
消費税率5%引き上げによる増収見込み: 13.5兆円。
(内:子育て財源にあてられる分 0.7兆円)
その「未来への投資」を怠った結果が現状である。後藤にいわせれば、なるべくしてなった超高齢化社会だ。
高齢者が標的だと報じられ、高齢者が多く入居する富裕層向けマンションや病院は、独自に警備を強化した。四郎は、政治家が入院することで有名な都内の病院のまえを偶然に通りかかり、その玄関前に長蛇の列ができていることに驚いた。タクシーの運転手に聞くと、荷物検査だけでなく、来院者ひとりひとりに金属探知機をあててボディチェックをしているという。その列を整理するために、警備員が臨時増員されている。よくみると30歳前後の若者が警備員として高齢者たちの列を護衛している。警備員はフリーターだろうか非正規雇用だろうか。彼らが非正規雇用で得た給与の約3割は、彼らが護衛している高齢者の受け取る年金や医療費に使われている。世代間格差を象徴するような光景だ。
21世紀になってから世代会計という計算手法をつかって、世代間格差の推計がなされるようになった。2001年の年次経済財政報告の推計では、団塊世代がいわば持ち逃げした社会保障(主に年金)のツケを後の世代がかぶっている様子が図示されていた。1940年代生まれの世代は、差し引きで約5000万円を社会保障などで政府から受け取っている。そしてそのツケが、後藤たち21世紀生まれの世代に残された。21世紀生まれは一人当たり約5000万円の国の借金を背負っており、1940年代や団塊世代の受け取った社会保障給付を肩代わりして支払う形になっている。
団塊ジュニア世代(1970年代前半生まれ)が2050年現在の高齢者で、彼らはたしかに1000万円ほどの払い損になってはいるが、いまの若者ほどではない。高齢者と若者の世代間格差は依然として4000万円ちかく存在するのだ。
特に、年金の過大給付「払いすぎ」が大きなツケを残した。公的年金債務は2010年頃には550兆円を超えており、すでに取り返しがつかないことになっていた。勤労世代が負担する保険料だけでは、当時の年金給付を賄うことはすでにできなかったため、2008年には年金積立金の取り崩しがはじまった。そして、2030年に年金積立金が枯渇した。
世代間格差を是正しようという動きがなかったわけではない。10年前、2040年総選挙のときに、世代間格差解消を掲げた「日本若者党」が各地に候補者を擁立し、「政府のアンチエイジング」や「シルバー民主主義をかえよう」といったスローガンで支持を呼びかけた。だがすでに60歳以上が全有権者の過半数を占めており、年金給付適正化などの公約に票はあつまらなかった。そもそも勝ち目のない選挙戦であったが、「日本若者党」がなげかけた世代間格差の問題に20代の若者も関心をもち、20代の投票率は60%にまで上がった。20代の投票率が60%を超えたのは1980年が最後で、実に60年ぶりのことだった。だが、投票者の年齢構成をみると、3分の2が50歳以上であった(図)。
日本若者党は惨敗。結局、1議席も獲得できなかった。
こうした事態を見越して、前世紀から「年齢別選挙区」の導入をとなえる経済学者もいた。有権者の年齢ごとに選挙区を設け、たとえば、20~30代の若者区、40~50代の中年区、60代からは老年区とする。その選挙区ごとに議員を選ぶというアイディアだ。これなら、人口構成がゆがんでも、若者の声は一定数の議員を通じて、少なくとも国会に届くはずだ。また、21世紀に入ったばかりのころ、別の経済学者が「余命別選挙制度」を提唱した。これは、余命に応じて選挙権に重みをつける仕組みで、余命の長い若者の選挙権を重くするものだ。年齢別選挙区をもとに、議席配分を余命でウェイトをつけることでそれを実現する。生涯を通じた1票の重みは同じなので、1人1票の原則も守られる。これならば、現在のようなシルバー民主主義の膠着状態に陥らずにすむという発想だった。だが、もちろん、これらの年齢別選挙区にしても、余命別選挙制度にしても、それが現実的な改革案として取り上げられることはなかった。
連続テロ3日目。高齢者を直接標的にしたテロに対しては厳重な警戒体制がしかれていたが、その虚をついたように、午前10時に日本年金機構ビルに爆破予告が入った。年金機構が「世代間の助け合い」という名のもとに行なってきた「搾取」に対しての報復だというのだ。ただちに全職員がビル外へ退避し、同時に爆発物処理班が到着し、爆発物の捜索を開始した。午後3時に爆発物がみつかったものの、現場での爆発物解体処理が必要で周辺ビルに入居するすべての人を強制退避させなくてはならなかった。ようやく午後9時をまわった頃に爆発物の無力化に成功する。
だが翌日、年金機構のデータサーバーに外部から侵入があり、年金記録の大部分が大幅に改竄されていることが判明した。爆破予告をおとりにしながら、年金記録データをねらったサイバーテロであった。これにより年金給付手続きがしばらく停止し、現金を手にできなかった年金生活者が絶望のあまり命を絶ってしまうという痛ましいニュースがそのあとに何件か続いた。
一連のニュースは、公的年金制度の最悪の帰結であるように後藤には感じられた。そもそも1960~80年代に導入された公的年金の仕組み自体、ねずみ講みたいなもので無理があった。危機のはじまりは、過去の年金の大盤振る舞いにある。
もちろん、80年代から低下傾向にあった出生率が回復しさえすれば帳尻はあったかもしれない。政府が年金財政の将来見通しを推計するたびに出生率は下がりつづけていたのだが、それにもかかわらず、出生率は回復するという楽観的希望を「推計」と称することで年金財政の持続可能性を強調しつづけた。
厚生省はそれを前提に年金収支を計算してきた |
出生率の回復が望めないことがわかってからも、政府は年金の大盤振る舞いを改めなかった。出生率のごまかしがきかなくなってからは、経済見通しの「推計」で帳尻をあわせるようになった。後藤は、当時の財政検証の資料を探してみたところ、後藤が小学校に入学した頃の2009年のものが見つかった。たしかに、少子化が進行しても、経済成長が続けば、なんとか持ちこたえられたかもしれない。資料によると、賃金は年率2.5%で成長しつづけ、さらに女性や高齢者の労働参加も進み、保険料収入が伸びると予測していたようだ。そして、積立金運用では年率4.1%の運用益が見込まれている。物価上昇率は1.0%なので、実質年金給付はすこしずつ減っていくという目論見だった。「何だ、これは」、後藤がおもわず漏らした言葉が図書館に響く。だがこうした甘い目論見も、20XX年に起きた日本国債暴落危機以降は政策論議の舞台から姿を消した。
「少子高齢化の時限爆弾」。後藤四郎が大学院生の頃に、財政学の講義で何度も聞かされた言葉だ。その講義を担当していたのは1970年台前半に生まれた第2次ベビーブーマー・団塊ジュニアで、自分たちの世代が国家財政を破綻させるんだろうと自嘲気味にいいながら、その言葉を繰り返していた。ただし、その准教授は「でも、わたしは子どもを3人産みましたからね」と必ずそのあとに付け加えることを忘れなかった。彼女にとっては、少子化社会においてそれが自分にできる一番の社会貢献だというのだった。
国会が臨時招集される。与野党間の責任追及問題で議論は空転して、なにも進まず。
高齢化がすすむ東南アジア諸国では、介護士需要が急増している。そうしたなかフィリピンやインドネシアから介護労働者が日本に来なくなって久しい。日本政府が介護士不足の打開策として考えているのは、旧北朝鮮領内にいる人々を移民として受け入れることだった。その介護士資格認定試験を受けに、旧北朝鮮領内から約5000人の移民が呼び寄せられた。マスメディアを呼んで、資格試験受験者が会場を埋め尽くす様子を全国に見せつけ、内閣支持率をすこしでもあげようというイベントである。ただし、資格試験といっても、右左もわからぬ難民同様の人達を無理やり介護士に仕立てあげるというのだから、試験問題にはハングルで注釈がたくさん入っているという。
テロ4日目の標的となったのは、その試験会場だった。介護士を外国人にまかせてしまっては、さらなる介護報酬の切り下げの口実を与えるだけだ、とでもいうのか。爆破予告をうけ、受験者たちを外に避難させるも、日本語もわからない彼らは慌て、会場付近は混乱を極めた。爆破予告どおりの場所に爆発物が発見され、3時間後に無事に撤去された。試験を予備会場で開始するために受験者を再度呼び集めたが、集まったのはわずかに3300人程度であり、およそ3分の1が文字通り着の身着のまま"不法難民"となり東京都内各所に消えていった。
次の日、後藤四郎は、財政学の講義で教壇に立っていた。連続テロ事件の背景を解説したあとで、選挙の経済学モデルを教えはじめた。1人1票という20世紀の普通選挙制度が、実は人口減少期には、高齢者優遇のワナに陥ることを示した。そして、とても極端で理不尽なのはいうまでもないが、まさにその高齢者優遇のツケが、一連のテロ事件という形で現れてしまったのだと話した。だが、学生からの反応は冷たい。お前たち大人に責任があるだろう、といわんばかりだ。彼らの気持は十分わかるし、多くの優秀な若者が海外にでていってしまうのも当然だ。ただ四郎は残念に思うのは、仮に高齢者優遇のツケがあっても、少子化がここまですすまなければ、若者の未来はもうすこし明るかったかもしれないということだ。四郎は、かつての財政学の講義を思い出した。そこで、苦笑いをしながら、「ま、ぼくにも子どもが2人いるんだけどね」と付け加えるのが精一杯だった。
週末に訪れる予定の実家には近い将来に介護を必要とする両親が住んでいる、また自分自身の老後のことも心配だ。息子がアフリカの大学を進学先に選んだことも気になる。これがほんとは夢をみているだけなんだと思いたかったが、少なくとも学者である自分がそんな希望的憶測に逃げてはいけないと自戒し、学生に向き直り講義を再開した。
ラストシーン:
午後6時10分にチャイムがなり、チャイム終了時にあわせて後藤は「回答やめ。筆記用具をおいてください」と大きな声で教室の受験生たちに伝えた。これで、東大入試の第1日目の全科目が終了した。1日目は特に問題なくおわったようだ。秋入学に移行したあとも、国立大学の受験日は2月25・26日のままで、日本社会で何十年と変わらぬものの一つである。手順通りに回答用紙を数え上げ、受験者数と一致したのを確かめてから、封筒に入れた後藤は、所定欄にサインペンでなかば殴り書きのように自著した。暗い窓の外をながめても何も見えない。天気予報のとおり、すでに午後から雪が降り始めていて、明日の明け方には都内でも10数年ぶりの積雪となるらしい。もうすでにいくらか積もっているのだろうか、靴下の替えを持ってくればよかった。明日は積もるね、と傍らの事務職員に話しかけると、明朝交通機関が止まった場合の対処を教えてくれる。外に出ると、うっすらと積りはじめていた雪がひかっていた。
その夜、高齢者を狙った無差別大規模テロ計画が発覚。特殊部隊に出動要請が出る。夜半すぎから雪の積りだした街中を、500名余りを乗せた装甲車両の列が現場に向かう。大規模なテロ計画だという情報があり、車両には爆発物処理班だけでなく、自動小銃で武装した特殊部隊の精鋭が多く乗り込んだ。
隊列は都内に入ったが、目的地への道から逸れていく。異常に気付いた司令部が「君たちはどこに向かっているのか」と問うと、部隊を率いているはずの連隊長からの応答はなかった。かわりに、「我々は全員、35歳以下であります。ニッポンの未来を守るために全力を尽くす所存です」と告げる声が聞こえ、通信は途切れる。司令部の誰もが何かを言おうと言葉を探す。その虚をつくように、0時の時報が鳴り、日付が変わった。
2050年の「2・26」もまた、都内には早朝から雪が積もっていた。
1945(昭和20)年 女性が参政権を獲得。同じ頃、大学も共学化される。
1968(昭和43)年 日本のGNPが西ドイツを抜き、世界第2位の経済大国に。
1974(昭和49)年 第2次ベビーブーム終了。出生率2.05に。人口維持水準を下回る。
1985(昭和60)年 女性差別撤廃条約批准・男女雇用機会均等法改正
1990(平成 2)年 「1.57ショック」。少子化が社会問題として広く認識される。
2005(平成17)年 総人口の減少がはじまる。
2008(平成20)年 年金積立金取り崩し開始
2010(平成22)年 GDP世界2位から転落。中国に抜かれる。
…
20XX年 日本国債暴落
2020年 消費税率20%に
2030年 年金積立金枯渇
2040年 日本若者党の「かえよう!シルバー民主主義」が話題に。
2050年 若者がテロリストになる日
私のシナリオ原案から起こしたものが、この書籍の「人口衰弱」という章にまとまっております。(結末は私の原案よりもだいぶぬるい結果になっています)
財団法人日本再建イニシアティブ『日本最悪のシナリオ 9つの死角』新潮社、2013年。
財団法人日本再建イニシアティブ『日本最悪のシナリオ 9つの死角』新潮社、2013年。